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2021-04

精神分析概説

精神分析概説(津田均 訳 2007)
Abriß der Psychoanalyse (1938)

 「モーセという男と一神教」を書き終わった直後から執筆され、1ヶ月あまりで手術を受けるために中断され、ついに完成されず没後に公表された草稿である。

 手術後には「精神分析初歩教程」という、より初心者向けの著作に着手したが、これもまた未完に終わっている。新たな執筆を始めたということは、その時点で彼はまだ書けると思っていたということだ。にもかかわらず、「概説」の方はそのままにして「初歩教程」を書き始めた。どうしてなんだろう。

 フロイトは、一般の人々や初心者に向けて精神分析を解説する著作には、熱心に取り組んできた。「精神分析入門講義」がもっとも代表的なもので、丁寧に続編も作っている。
 ところが、専門家向けの概説というのはこの著作が初めてで、それも完成しなかった。

 以下は私の憶測。フロイトは、これを残される専門家のためになかば義務的に書こうとしたのではないか。ただ、彼は思考過程を重んじる人だったから、結論だけを簡潔にまとめることには居心地が悪かったし、またその結論が絶対的なものとして、権威として祭り上げられてしまうことも好まなかったのではないかという気がする。

一か二か

われわれが心的なもの(心の生活)と呼ぶもののうち、われわれに知られているのは、二種類である。ひとつは、それの身体器官と舞台、すなわち脳(神経系)であり、もうひとつは、われわれの意識作用である。(22-179)


 心理学を語る時に、それが身体的な一元論か、心身二元論であるかを問うことは、現代ではもはやあまり意味のないことになっているのかもしれない。なぜなら、心が身体とは完全に独立して存在すると主張する心理学は実質上ないからだ。
 しかし、実際上は身体のことをほとんど言及せずに、あたかも独立したものであるかのように心を語る心理学というのは今でも多いのである。
 一方、身体の方から心理学を全部説明してしまおうという、現代では「脳科学」などと呼ばれる分野は、野心的に研究を進めており、その説明が間もなく可能となるかのように楽観的に考えているものもある。
 しかし、心が身体に依存していることはわかっても、両者の間の関係についてはほとんどわかっていないという事情は、フロイトの時代とあまり変わっていないのではなかろうか。

 フロイトはもともとすぐれた神経学者であり、ニューロンから心理学を記述する壮大な試みをした(「心理学草稿」1895)くらいだから、身体的なものはかなり重視している。一方、その研究の方法は精神分析という、主観的な世界、心の側からのアプローチなのである。
 私は、フロイトの心理学の深み、おもしろさは、ひとつには彼の思考に含まれる一元論か二元論かの葛藤から生じているのではないかと思っている。

心の居場所

われわれは、心の生活はひとつの装置の機能であると仮定し、この装置が空間的な広がりを持ち、さまざまな部分から合成されていると考える。(22-179)


 フロイトはこのような仮定のもと、二つの「局所論」を構築した。第一のものは「夢解釈」(1900)で、第二のものは「自我とエス」(1923)で、はじめて提示された。
 ここでいう「空間的広がり」というのは心理学的な比喩であって、脳の局在と直接結びつくものではない。しかし、まったく無関係というわけでもないようだ。ここのところを、どう考えるかはむずかしい。

 心が脳を基盤としてなりたつのであれば、そのさまざまな働きも脳の場所に依存している。最近は、脳の画像化の技術進歩によって、脳の活動の様相を視覚的に捉えることが可能になっている。いろいろな心的作業をしている人の脳の、どの部分が活発に働いているか、といったことをリアルタイムで見ることができるのだ。
 しかし、こういうのを自分の精神活動に当てはめて、心から納得するのはむずかしい。自分の心は、場所に依存しない全体的なものとして感じられるのだ。

現在と過去

エスと超自我には、あらゆる根本的な相違にもかかわらず、一致点があることがわかる。それは、それらが過去からの影響を表しているという点であり、エスの場合は遺伝からの影響、超自我の場合は本質的に他人から受け継がれた影響である。これに対して自我は、主に自分によって経験されたもの、したがって、偶有的、現在的なものによって決定されている。(22-181)


 後期の局所論において、心的装置は、自我、エス、超自我の3つの審級から成るものとされる。
 自我というのは、現実に対応する必要性のためにエスから分化したものである。だから、現実に合わせて柔軟な対応ができるようになっている。
 これに対してエスと超自我は個人を超えた歴史的過去からの遺産を受け継いでいる。それが自我につきつけてくる要求は、時代を超え個人を超えて普遍的なものである。
 文明の進歩によって、われわれが対峙している現実は、われわれが受け継いだものが想定していたものとは、随分大きく様相をかえてしまっているに違いない。現代人の生き難さというのは、そういうところにあるのだろう。

動物心理学

心的装置の一般図式は、心のあり方という点で人間に似た高等動物にも適応可能である。人間のような長期にわたる子ども時代の依存性があるところにはどこでも、超自我の存在が仮定されうる。自我とエスとの区別を仮定することも不可避である。(22-182)


 もしもフロイトがもっと長生きをしていたら、動物心理学にも貢献していたであろう。ここで言う「人間に似た高等動物」というのはどのくらいの範囲のものをさすのだろうか。フロイトは犬好きで特に晩年は可愛がっていたというから、犬にも自我や超自我があると考えていたのかもしれない。哺乳類以外ではどうかな。鳥類でもカラスなんかは随分かしこそうだし。蟻のような昆虫はどうかな。・・・などと考えると楽しい。
 現在の動物学では、そのあたりはどういうことになっているのだろうか。

自己破壊

超自我が組み込まれると、攻撃欲動のかなりの部分が自我の内部に固定され、そこで自己破壊的に働くようになる。これは、人が文化の発展への道において自ら引き受ける、健康衛生上の危険である。攻撃性を抑えておくことはそもそも不健康であり、(その人を傷つけて)病気を作り出す性質を持つ。(22-184)


 攻撃性を抑えつけることがいかに不健康かという、文明化された人間の生活の宿命を述べたものである。
 こういった議論は戦争論とのからみでもでてきた。もちろん、攻撃性を抑圧するのはよくないからという理由で、戦争を正当化するわけではない。しかし、平和というものはそう簡単には維持できない。そこに人間の悲しい性があるのであって、フロイトは厳しい現実を見つめているのである。

取替え可能

人生の重要な性質はリビードの可動性であり、それが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。(22-185)


 下世話な例で言うと、失恋した直後の人間は「彼女(彼)程の人は金輪際存在しない。もう恋をすることはできない。」といった気持ちになるのだが、意外にも早くに復活し、また別の対象に熱を上げることができる。それが通常のことであって、いつまでもくよくよしているとしたら、そこにはなんらかの固着が働いているものと考えられる。

それでも私は知っている

この研究に出発点を提供するのは、ほかに比較しうるもののない、あらゆる説明と記述に抵抗する、意識という事実である。意識について語るとき、人はそれでもやはり、自分のもっとも固有の経験から直接、それが何を意味しているかを知っている。(22-192)


 「この世の中の出来事はすべて私の頭の中で作られた幻想である」という仮定と同様、「自分が感じているような意識は、世界で唯一つ自分にしか存在しない」という仮定も、決して完全に反証しえないものである。主観的な意識というものは、実に、考えれば考えるほど、不思議である。一方では、意識をもった生物がいない宇宙というものを想像してみると、それもまた不思議である。だれも見ていないところで星たちが生まれては死ぬことになんの意味があるのだろうかと。

言葉の記憶

これ(注:自我の内的過程が意識という質を獲得すること)は言語機能の成し遂げるところであり、言語機能は自我の内容を、視覚、しかしさらには特に聴覚の想起残渣と固く結びつける。(22-197)


 意識的な思考というものは、内的言語によって可能になる。内的言語とは、主に聴覚的な想起残渣(記憶像)によって構成される。例えば、「私は考える」という内的言語は、「ワタシ ワ カンガエル」という発音の聴覚像として心中に想い出される。そして「ワタシ」という聴覚像は、それと連想によって結びつく一連の概念を想起させ、「カンガエル」も同様に、という風に次々と概念が想起される。これが、意識的に考えるということである。
 意識的思考が無意識的思考と違うところは、それが外界の知覚と同等の質をもって自我に対してたち現れるという点である。これこそが思考が意識化されることのしるしである。内と外との区別は、後になってから二次的に、「現実吟味」という自我の機能によって可能となるのである。

エネルギー変換

われわれにわかっていると思われるのは、神経のエネルギーあるいは心的エネルギーにはふたつの形態が存在していて、ひとつは容易に動くもので、もうひとつはむしろ拘束されているものだということである。われわれは、内容の備給と過剰備給という言葉を用い、過剰備給はさまざまな過程の一種の総合を作り出し、その下で自由エネルギーが拘束されたエネルギーに変換されるのではないか、という推測までをもあえてしてみる。(22-199)


 自由なエネルギーと拘束されたエネルギーの対比というモデルは、ブロイアーとの共著の「ヒステリー研究」からのものである。
 こういった言葉遣いは、フロイトの生物学的な指向性を表しているように思われる。とりわけ、ここでは「神経のエネルギー」とはっきり言明していることから、比喩的ではあるけれども、やはり脳・神経といったものを想定していることがわかる。
 しかし、このエネルギー拘束のモデルが何を言わんとしているのかは、いまひとつよくわからないところである。自由なエネルギーというのは、どうやら観念から観念へと連想が自由に働く状態であり、拘束されたエネルギーとは、言語と論理によって連想が制限された状態のようだ。つまりは、一次過程と二次過程とからむ話のようなのだが、一次過程=自由エネルギーというように、単純に対応しているわけでもないようだ。

 過剰備給という言葉もまたよくわからないが、われわれ人間が誇りとしている統合的で論理的な思考というものには、確かになにか過剰なものがあるという気がする。その過剰さがあってはじめて、筋道だった理論ということが可能になるのかもしれない。

子宮内生活へ

誕生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、すなわち睡眠欲動が生じたと主張することは正当であろう。睡眠は、このような母胎内への回帰である。(22-202)


 睡眠を母胎内への回帰と捉えるのは、大変おもしろい。とてもしっくりくる比喩だ。
 健やかな眠りというものは万人にとって有難く、うれしいものだろうし、それが妨げられることはつらいものだ。
 人間にとっての欲求とは大抵は活動的なことへの指向なのに、睡眠という、活動とは逆のことを求める欲求が確かに存在する。睡眠には、単に疲れたから休むという消極的な営み以上のものがある。それをフロイトは「子宮内生活に戻ろうとする欲動」と、表現しているわけだ。

 ところで、欲動というからには、それは生の欲動と死の欲動からなるのだろうが、どのような比率からなるのだろうか。「母胎内への回帰」というとエロス的に思えるが、睡眠と死との類似性やその保守的な方向性は、死の欲動を連想させる。

夢は太古から

それを超えて夢は、成人の生活に由来していることも、また忘却された幼年期に由来していることもありえない内容を出現せしめる。われわれはこれを、子どもが先祖の体験に影響されて、いっさいの自分自身の体験の手前で生来的に持ち込んだ、太古的な遺伝部分と見なさざるを得ない。(22-202)


 太古からの遺産については、「モーセという男と一神教」でもでてきたが、要するに個人の体験や記憶の背後に、祖先の体験や記憶があるということだ。

 ここでは、そのような遺産が夢の中にも表現されることを述べている。
 これは、とりようによってはオカルト的にも思えるが、よく考えてみると当たり前なことである。
 個人が体験し、印象を受け、記憶するという一連のプロセスは、すべての事柄について均一になされるわけではない。ある種の事柄には敏感に反応し、印象強く記憶されるし、別の事柄については無視され記憶もされない。つまり、個人はいくつかの普遍的なパターンにそった体験をしがちなのである。一定のパターンをもたらす指向性の、ある部分は生得的であり、個人差もあるが大部分は種全体に普遍的に受け継がれたものだ。同じような体験が、祖先から反復され受け継がれてきたわけである。
 太古の遺産とはそういうものであろう。

無意識の作法

しかし、われわれの洞察にとってそのように夢が計り知れない価値を持つのは、無意識的素材が自我に侵入するとき、その工作のやり方を自らとともに引き連れてくるという事情のためである。(22-203)


 夢解釈というと、どうしてもその内容の方に目がいってしまいがちだが、もちろんそれも大事なのだが、フロイトがより重視しているのはむしろ夢の中に表現される思考の独特の形式である。
 夢の研究が明らかにした無意識過程の特徴として、ここでは縮合、遷移、無論理といったことがあげられている。
 これらは、われわれが当たり前のように親しんでいる意識的思考の特徴を逆に際立たせてくれる。つまり、われわれは物事を区別する。そしてそれらを分類し、概念として整理して捉え、それに基づいて思考する。しかし、そのような意識的思考は、ほんの表面において成り立っているだけであって、その背後には無意識過程、エスにおける一次過程があるのである。

困難な治療

こうしてわれわれは、われわれの治療計画を精神病患者において試みるのは断念しなければならないことを知る。永久に断念しなければならないのかもしれないし、もっと精神病患者の役に立つ別の方法をわれわれが見出すまで断念しなければならないだけかもしれない。(22-211)


 第六章は精神分析技法のサマリーとなっている。分析治療の困難な側面について多くのことが書かれており、治療者と患者双方にとって簡単なものではないということがわかる。

 第一に、精神分析治療の対象となるのは精神疾患の一部に過ぎない。分析治療は、患者の弱体化した自我と治療者とが協力して治療にあたるために、治療同盟を結ぶことによって成立する。現実と自我との関係があまりに歪んでしまっている精神病圏の患者では、有効な治療同盟を結ぶことができないとフロイトは考えた。
 ただ、この「断念」はその時点のものであり、将来には何らかの方法が見出されるかもしれないことにも期待がよせられている。

教師ではなく

他人に対して教師、模範、理想となりたい、人を自分の手本に従って作り上げたいという誘惑がどれほど分析家をそそのかそうとも、そのようなことは分析という関係における自分の任務ではないこと、そのような傾向に身を委ねてしまえばむしろ自分の責務に対する背信になることを、分析家は忘れてはならない。(22-213)


 分析治療における治療者の側のむずかしさのひとつは、このあたりにあるのであろう。
 患者が治療者を理想化して、その影響力に感化され、暗示による治癒にいたることがあるが、フロイトはこれを真の治癒とは認めない。それは転移関係の中で生じたことであり、陽性の関係が敵対的なものに豹変するとともに、もろくも崩れ去ってしまうという。

 転移は治療にとって諸刃の刃的なものとなるが、これをうまく扱うためには、最初に結んだ治療同盟に繰り返し立ち返り、治療者と患者関係の現実性を意識していくことが大切なようだ。

 他人に対して教師的な立場になりたいというのは、多くの人が内心抱いている気持ちだろう。分析において、治療者がこれを認識して抑えていくというのはさぞかし難しいことであろう。フロイト自身も苦労したのかな。

 いや、この章全体がなんだかフロイトの長年にわたる治療上の苦労を、教訓という形に凝縮させたものとも読むことができるような気がする。(そのような読み方は、大家に対して失礼なことかも知れず、ぜんぜん見当はずれかもしれないが。)

最後の一歩

原則としては、われわれは、われわれの構築を伝え、説明するのを、彼がそのことに自分自身で近づいてきて、残っているのは最後の一歩、それも決定的な統合のみであるというときまで待つ。(22-217)


 精神分析というと、患者が語り、治療者がすかさずそれを解釈する、というイメージが一般にはありそうだ。しかし、フロイトの教示によれば、分析家には患者の病理が見えてきてもすぐにそれを伝えてはいけない。患者が自分からそれをわかるまで、待って待って待つ。

 なぜそうなのかといえば、人間というのは自分では認めたくない真実を他人から指摘されると否定したくなるものだからだ。おそらくフロイトも、早くに解釈を与えすぎて患者からの猛烈な抵抗にあうということをたくさん経験し、その教訓をここに記したのではなかろうか。

薬物療法

将来になれば、われわれは、特別な化学物質が、心の装置におけるエネルギーの量とその分配に直接影響するということを知るかもしれない。まだ予測のつかないほかの治療可能性が現れるかもしれない。(22-222)


 この記述は、現在ではすでに広く行われている精神疾患の薬物治療ということを見事に予言している。それを精神分析の創始者であるフロイトが言っているところがまたすごい。

 この関連で想い出されることは、フロイトが精神分析をはじめる前、1880年代にコカインの鎮痛作用に注目し、熱心に研究をしていたということだ。彼はコカインを神経症の治療に使おうと考えたり、自分自身に使用してみたりしていたという。しかし、コカインの中毒性が認識されるようになり、フロイトをはじめとする研究者はそのことで評判を落とした。今でもフロイトの批判者は、このあたりのことを指摘したがるくらいだ。

 そういうわけで、薬物による精神疾患の治療というアイデアは実は早くからフロイトの頭にあったのかも知れない。むしろ、それに挫折したために心理的な治療に向かうようになったという順番なのかも。

人類の弱点

神経症は本質的には正常からかけ離れていないという先の確認が依然として正しいとすれば、その研究は、この正常についての知識に対しても価値ある貢献をすることを約束する。われわれはその際に、正常な編成の「弱点」を発見するかもしれない。(22-224)


 もちろん、ここで言う「弱点」とは、「性」のことだ。神経症の原因が性的な事柄にあるということは、初期から変わらぬフロイトの持論であった。そして、これこそが文明化された人類全体にとってのアキレス腱ともいえる。

 性について社会がどういう態度をとるかは、時代や地域によってかなり異なるであろう。フロイトが暮らした時代の西欧社会に比べれば、現代の日本におけるような状況は、性的なことに関して随分自由になったといってよかろう。しかし、だからといって人々の性についての悩みがそれだけ解消されたかといえば、そうでもないような気がする。

文明の病

未開人は健康でいることあ容易であるが、文明人にはそれが困難な課題であるということを、われわれは知っている。制止されていない、強い自我への憧れがあるということを、われわれはもっともなことと考える。現代という時代がわれわれに教えているように、この憧れは、もっとも深い意味において文化敵対的である。(22-225)


 フロイトの言う「未開人」、すなわち自然状態で暮らしていた人類全体の祖先が、果たしてそれ程健康で気楽であったかどうかはわからない。彼らは彼らでけっこう大変だったのではないかとも想像する。
 しかし、現代におけるような文化による締めつけということは、はるかに緩かったに違いない。その代わりに、もっと直接的な個体と個体の争いということがあったのだろう。そして、その争いは露骨に性をめぐる争いであったのだろう。

 文明(文化)というものは、かつて他者を支配していた個体(原父)が、抽象化された形で人々を支配するようになった状態といえるのであろう。

 強い自我への憧れが文化敵対的であるというのは、なかなかしっくりくる表現だ。しかし、多くの人が不満を感じているのであれば、なぜそのようなものが続いていくのか。おそらくそれは、文化に関与しそれを支配することで、昔の強い自我を間接的にでも取り戻そうとする人々の振る舞いによるのであろう。

大きな配偶子と小さな配偶子

性がふたつあるという生物学的事実は、大きな謎の中でわれわれの前に立ち現れてくる。それはわれわれの知識にとって究極的なものであり、何かほかのことに帰することに抵抗する。(22-228)


 あまりに当たり前すぎて考えたこともないかもしれないが、人間にはなぜ性別があるのか。あるいは、多くの動物にはどうして性別があるのか。さらにまた、多くの植物にもどうして性別があるのか。
 生物の世界を見渡してみると、高度に進化しているように見える生物にはほとんど性別がある。つまり、大きな配偶子を作り出す雌と、小さな配偶子を作り出す雄の、2種類の個体が存在する。性別は、生物を高度に進化させるのに重要な役割を果たしてきたということなのか。
 例えば遺伝物質を混合しつつ次の世代に伝えていくというだけであれば、ひとつの性の個体ふたつから子孫が生み出されるというシステムでも問題ない。しかしそういう生物は高度には進化しなかった。
 ひとつの種の中に、雌と雄という、自分の遺伝子を構成に伝える方法において立場と戦略の異なる種類が生じたことが前提条件となって、生物は多様な方向に進化してきたものらしい。性にまつわる、雄と雌との騙し合いが進化の促進因子となったということか。ひとつの例が、ダーウィンの発見した性淘汰である。

とりあえず何か

子どもの最初のエロース的対象は哺乳する乳房であり、愛情は栄養欲求が満たされることに基づいて成立する。(22-229)


 槙原敬之に「とりあえず何か食べよう」という曲がある。恋人同士がいらいらして喧嘩する時、その原因は案外に単純な空腹ということにあったりするという内容の歌詞であった。
 たしかに空腹というものは、単に栄養が欠乏している不快ということを超えて、なにか自分が愛されていないというような、心理学的なものを掻き立てる。さすがに槙原、愛と食の深い関係についてするどく洞察しているものだ。

 それはさておき、上の引用に続く部分では、子どもが乳房という対象を発見し、それが母という全体的な対象となる過程について述べられている。対象関係論のエッセンスみたいなものだが、もひとつ重要な問題として「乳房か哺乳瓶か」ということについて触れられている。

 赤ちゃんを育てるのに、母乳がよいのかミルクがよいのかという議論は現代でもある。いや、母乳の方がよいというのは一般的見解になりつつあるので、問題はそれがミルクよりどれだけ優れているのかという話になっている。栄養学的に非常に優れているということだけでなく、最近は授乳行為における母子の情緒的な側面の大切さが強調されているようだ。

 で、この件についてのフロイトの考えは。

ここでは、系統発生的基礎の方が個人の偶有的な体験に比べてはるかに支配的に働くため、子どもが実際に乳房を吸ったか、それとも哺乳瓶で育てられていて母親の養育の愛撫を享受することができなかったかは、違いをもたらさない。(22-229)


 もちろん母乳の方がよいには違いないだろうが、あまりそれを強調しすぎるとミルクに頼らざるを得ない母親に大きなプレッシャーと罪悪感を与えるのではなかろうか。

マザコンかファザコンか

男性では、去勢の脅しがエディプスコンプレクスに終わりをもたらすことをわれわれは知ったが、女性では、その反対に、ペニスの欠如によってエディプスコンプレクスへと駆り立てられていることを知った。女性の場合、女性のエディプス的態度(それには「エレクトラコンプレクス」の名称が提唱された)に留まっても、わずかな損傷しか生じない。(22-235)


 女性のエディプスコンプレクスを「エレクトラコンプレクス」と呼ぶことを提唱したのはユングのようであるが、フロイトは以前の論文ではこの名称を使うことに否定的な見解を述べていた。共通の語を用いるか、別の語を用いるかということは、双方の同一性に目を向けるか違いを強調するかという判断によるのだろう。
 ここで肯定も否定もしていない、ということはユングに対する和解的な気持ちが最後になって生じたということかな、とも想像してみる。

 現代日本の日常語でいうところの、「マザコン」(注1)と「ファザコン」(注2)とでは、後者の方が一般に許容されているという印象がある。つまり、マザコンの男は嫌われるが、ファザコンの女はさほどでもない。むしろ尊敬されることすらある。
 マザコンというと、弱くて依存的な男性が思い浮かぶが、ファザコンというと、操が堅く道徳的で一途な女性がイメージされる。女性から見ると背後に母親が透けて見えるような男性は気色悪いが、背後に父親を感じさせる女性は、時によると男にとって魅力的に思えることもある。

 どうしてなんだろう。男も女も最初の対象が母であることには違いないから、その母に固着し続けることの方が未熟に見え、女性のファザコンは二番目の対象への固着だから許容されやすいのか。
 女性のほうが一般に母への同一化が強いので、男性の背後にいる母親に対して敵対的になりやすく、そのためにマザコン男性を嫌うのか。

注1)マザーコンプレクス:成人男性の母への強い固着。フロイトが用いた語ではない。
注2)ファーザーコンプレクス:成人女性の父への強い固着。フロイトは父親コンプレクスという語を用いることはあるが、主に息子にとってのコンプレクスである。

限界を知れ

そのような自然科学も、心理学も、われわれの知覚に直接与えられる研究対象の特徴(質)の背後に、われわれの感覚器官の特別な受容能力に依るところがより少ない、推定される現実の実態により近づいたものを発見することを課題とする。この実態それ自体に到達することをわれわれは望むことはできない。なぜならば、われわれは、新たに解明したものを再びわれわれの知覚の言語に翻訳しなければならず、その言語からどうしても自由にはなりえないことがわかるからである。(22-238)



 ここで、フロイトは心理学を物理学に比較しながら、科学的認識の本質と限界について根本的なことを述べている。

 われわれは、世界を光によって見、そのイメージを抱く。顕微鏡などの人工的補助手段によれば、微小な世界を研究することができる。しかし、この方法では光の波長による限界があり、それより小さい物は見ることができない。
 それでも、科学は様々な現象の観察と実験の積み重ねによって、物質がどこまでも均一に分割できるわけではなく、それ以上分割できない粒子より成ることをつきとめた。
 今日では、限られた種類の原子がどのような配列によって無数の分子を構成するか、またそれぞれの原子がさらに小さな素粒子によってどのように成り立つかということについて、われわれは多くの知識をもっている。それらの知識とコンピュータグラフィックの技術によって、そういった微小な世界をあたかも見ているかのような映像を作り出すこともできる。
 しかし、そのような映像は、あくまでも微小な世界を「われわれの知覚の言語」に翻訳したものに過ぎないことを忘れてはならない。素粒子の世界は、われわれの理解を絶するものなのだ。これは、実は逆の話であって、「われわれの知覚、認知、理解というものは、われわれが日常的に接する大きさや時間のスケール向けにしか作られていない」というのが本当のところなのだろう。

 無意識的心理過程というものも、素粒子の世界に比較されるようなものなのだろう。われわれが、自分自身の心的過程の一部分を意識することができるという、このことだけでも驚くべきことなのであるが、さらに無意識的な過程について認識するということはいかなることなのか。
 それは、夢の分析や精神分析によって得られた無意識についての所見から、意識的な過程を知覚するための言葉を用いて不完全な描写をすることがせいぜいであろう。われわれの視覚特性に合わせて作られた、素粒子の世界のCG画像のように。

不安の効用

エスは、存続を確実にしようとする配慮をせず、不安を持たない――あるいはこう言った方が正確かもしれない――エスは不安という感覚要素を発生させることはできるものの、それを役立てることができない。(22-240)


 エスが不安を「役立てることができない」という表現がおもしろい。不安とは役立てるためのものなのだ。もちろん、それを役立てるのは自我であり、何に役立てるかといえば現実適応のためだ。

 エスに不安がないといえば嘘になり、むしろ不安の発生源はエスにあるのだが、エス自体はそれを不安と認知して何かに役立てるわけではないので、その時点ではそれままだ不安と呼べるものではないということになる。それは、自我に認知されてはじめて不安になる。

 過剰な不安や場にそぐわない不安が現実適応にとってマイナスになることもあろうが、エスの方はそなことは配慮してくれない。かといって、自我もそれを不安と感じないようコントロールすることはなかなかできない。このあたりが悩ましいところだ。

 類似した例をあげれば、痛みというものがある。それは、おそらく自我が身体の不具合の場所や性質を知り、損傷と回復にとってよい条件を整えるための信号なのであろうが、過剰な痛みはつらく、そのために却って参ってしまう場合もある。
 不安と自我の関係も、おそらくそれに似たようなものなのであろう。

否認、分裂、フェティシズム

自我がその防衛の努力において実行することは、現実の外界の一部を否認しようとすることであれ、内界の欲動要求を退けようとすることであれ、完全に残余なく行われるということはなく、つねにそこからはふたつの対立する態度が出てきて、そのうちの、優勢ではない、より弱い態度の方からでさえ、心的に厄介な問題が生じてくるのである。(22-248)


 本草稿は、多岐に渡るフロイト理論のサマリーとなっているが、その中で最新の、未確定なものを多く含み、したがって最も興味深いところが第8章である。

 そこでは、自我分裂(Ichspaltung)ということが話題になっている。これはフロイトが晩年に提示した概念であり、彼自身によっては充分に論じられずに終わってしまった。
 エスと現実の間に挟まれて、双方から多くの要請を受ける自我は、自らを防衛するために、つきつけらえたものを拒否することがある。エスに対しては、抑圧である。そして、現実に対しては否認である。
 抑圧と否認は違った結果をもたらす。それはおそらく、個の内奥に存在するエスと、他者と共有されている現実との違いによる。
 現実が他者と共有されるものであるが故に、否認をどこまでも押し通すことは難しい。そこで、それを否認する自我と、認める自我と、二重の自我が生じる。これが、自我分裂である。それは通常幼少期に起こり、分裂した自我は巧みに使い分けられるので、本人もそうしていることに気づかない。

 自我分裂は、精神病の発病において顕在化する。
 さらに、自我分裂はフェティシズムにおいても重要なメカニズムである。ということは、これはかなり普遍的な防衛手段ということになる。なぜなら、病的にまで至らないフェティシズムは広範囲にみられるからだ。

 フロイトのフェティシズム論というのも賛否両論あるところであるが、私はもちろん大賛成なのである。もしかすると、私自身も潜在的フェティシストで、その感覚にぴったりくるからかもしれない。いや、全ての男性は潜在的フェティシストであると言ってもいいんじゃないかと思っているくらいだ。

 フェティシストが否認している現実とは、女性がペニスを持たないという事実である。そして、彼の中ではそれを否認する自我と認める自我とが分裂している。

 だいたい、女性に比べて男性の方が、性欲において「見る」ということにおかれる比重が大きい。視覚的媒体を用いたポルノは、男性向けの方がはるかに多い。これは、歴史的に女性が性的な表現の自由を奪われていたといったことだけでは説明できない、もっと根本的な男女差に由来している傾向であろう。

 男性が本当に見たいと熱望しているモノこそ、現実には存在しない女性のペニスなのではないか。ないものを見たいからこそ、それは永遠の欲望を掻き立てる。服を脱ぐ女性の姿を固唾を飲んで見守る男は、「今度こそはアレが見られる」と期待に胸を膨らませていることだろう。

 そして、フェティッシュという女性のペニスの代理物に固執し続ける人は、特にあきらめの悪い人ということになる。
2007.8.29

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