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2021-04

失語症の理解にむけて――批判的研究

失語症の理解にむけて――批判的研究(中村靖子 訳 2009)
Zur Auffassung der Aphasien (1891)

 この著作は、フロイトが単独で出版した書籍としては最初のものであり、執筆当時はかなりお気に入りの作品であったようだ。
 当時は、脳についての研究や議論がものすごく盛んで、そういった意味では現代の状況とちょっと似ている。そして、注目されていた主要な題材のひとつが、失語症であった。フロイトの叙述に従って、年代順に簡単にまとめると以下のようになる。

1861年 ポール・ブローカの発見。大脳の左下前頭回の損傷によって、音声による言語の表出が失われる。(正しくは左側ではなく優位半球側だが、優位半球は左であることが多いので、以下でも「左」と記すことにする。)
1874年 カール・ヴェルニケ、『失語症複合』を発表。左上側頭回の損傷によって、音声言語の理解が失われる。大脳における言語装置は、言語の感覚中枢(左上側頭回:ヴェルニケ野)と運動中枢(左下前頭回:ブローカ野)と、それらを結ぶ伝道路によって成り立つという仮説を提示した。(図1参照)

図1-1

1885年 ルードヴィヒ・リヒトハイム、『失語について』を発表。その中で、失語についての有名な図式と、それに基づいた失語分類を提示した。(ヴェルニケ-リヒトハイムの図式およびヴェルニケ-リヒトハイムの失語分類:図2)

図1-2

A:聴覚性言語中枢(ヴェルニケ野)
M:運動性言語中枢(ブローカ野)
B:脳の特定部位を示すのではなく、言語装置を起動するような大脳皮質の無数の部位を代表する。

図中の1~7の損傷によって、以下のようなタイプの失語が生じる。
1.皮質性運動失語(ブローカ失語):言語理解は保持されるが、自発的に話すことも復唱することもできない。
2.皮質性感覚失語(ヴェルニケ失語):話しかけられたことを理解できず、復唱もできない。自発的に話すことはできるが、意図する語と違う語を発してしまうという錯語を生じる。
3.ヴェルニケ伝導失語:理解も発語もできるが、錯語がみられる。
4.超皮質性運動失語:自発的に話すことはできないが、復唱はできる。
5.皮質下性運動失語:自発語が失われる点で皮質性運動失語に似るが、書字能力は保持される。
6.超皮質性感覚失語:話しかけられたことは理解できない。復唱はできるが、復唱した内容を理解しない。自発的に話すことはできるが錯誤が混じる。
7.皮質下性感覚失語:皮質性感覚失語に似るが、話す際に錯語がみられない。

 以上は、フロイトのサマリーをさらに要約したものである。実は、このような説明は、失語症についての古典的分類として今なお立派に通用しているのだ。そういう意味では、ヴェルニケとリヒトハイムの業績は実に立派なものであったといえる。

フロイトによる批判

 フロイトが本論文で試みているのは、ヴェルニケとリヒトハイムの大理論に対する批判なのであった。当時から見ると、失語症の大御所に若造が楯突いているようなものであったろうが、それは堂々たる論陣の張りようだった。

 問題は、脳の働き方についての局所論か全体論かという、当時からあり現在も続いている論争に通じるものである。局所論とは、脳の働きを局所における個々の機能に分解して説明しようとする立場であり、全体論とは、脳における重要な働きは局所の働きには分解できない全体的なものであるとする立場である。

 フロイトは、どちらかというと全体論の立場から、ヴェルニケやリヒトハイムの局所論的な捉え方を批判した。当時全体論的、機能的に失語現象を捉えようとして学者としては、フバート・G・グラースハイ、チャールトン・バスティアン、ジェームズ・バスティアンがおり、本論文でもそれらの著作から多くの引用がなされている。また、フロイトの論を支えた根本的な考え方としては、ヒューリングス・ジャクソンからの影響が大きい。

 ヴェルニケは、言語機能を、「聴覚性言語中枢」や「運動性言語中枢」といった、複数の「中枢」と、それらを結ぶ伝導路という具合に分解して考えた。そして、聴覚性言語中枢には、音声言語の記憶である「語音心像」が、運動性言語中枢には発語に関わる記憶像である「語運動心像」が、それぞれ蓄えられているという。それぞれの記憶心像は、個々の神経細胞内に蓄えられていると、ヴェルニケは考えた。この考え方は、神経解剖学の権威であったテオドール・マイネルトの論にもとづくものである。ちなみに、マイネルトはフロイトのかつての師にあたる。

 以上のような仮説はとても明快であるが、実際の失語症の臨床とは合致しないところが大きい。フロイトの詳細にわたる批判をごく大まかに要約すると、次のようになるだろう。

 理論と現実が特に大きく異なるのは、聴覚性言語中枢が損傷されるという、ヴェルニケ失語である。このタイプの失語では、聴覚理解は失われるが発語は保たれるということになっている。ところが、実際にはその発語は、とても「無傷」と言えるような代物ではないのである。
 まず、意図する語が別の語に置き換わる錯語が頻繁にみられ、時にはほとんど意味不明な「ジャルゴン失語」を呈することもある。「あれ」や「それ」などの不特定の名詞が多く、付属的な言葉が過剰で、同じ語の繰り返しが多い。ヴェルニケ自身が提示した、すでに相当の回復をみせた症例の言葉は次のようなものであったという。

「とてもとても、あなたがとにかくご覧になったすべてにお礼を‥‥。本当にとてもありがとうございます、あなたが私におっしゃってくださったことすべてに。ねえ、あたなたがこんなによい方でいらっしゃって、あなたがこんなに親切でいらっしゃって、本当に何回もお礼を申し上げます。」(1-30)

 要するに、「聴覚性言語中枢」なる独立した中枢が存在するという仮定そのものに無理があるのであって、言語の理解と発語といったことは一連の密接に絡み合った機能と捉えた方が自然なのである。

 フロイトは、単に批判するだけでなく、代案も提示している。
 言語機能は、左半球の、ヴェルニケ野やブローカ野を含むより広範な領域全体において、連合的になされている。ヴェルニケ野が、見かけ上「聴覚性言語中枢」のように見えるのは、この部位が大脳の両側半球によって捉えられた聴覚刺激を束ねて受け取る場所であるからである。同様に、ブローカ野は、発語に際して、両側半球の発語に関連した運動野に向けて刺激を送り出す部位であるがゆえに、そこが損傷すると発語の障害がもたらされる。ヴェルニケ野とブローカ野以外の言語領域が部分的に損傷された場合には、残された領域が迂回路によって連合して機能しようとするため、換語困難(言葉が思いつかない)など、言語機能の全体的な低下をもたらすが決定的な障害には至らない。

すべては連合である

 フロイトが最も痛烈に批判したのは、「神経細胞に表象が局在している」というヴェルニケの考え方であり、さかのぼればマイネルトの前提である。
 記憶が、個々の神経細胞に蓄えられるなどということはあり得ない。ではどのように蓄えられるのかといえば、それは神経細胞同士の連合Assoziationによるのである。

 これは、実に重要な、後の精神分析理論にも引き継がれる考え方である。"Assoziation"は、精神分析用語としては、「連想」と訳される。連想と連合は、同じものだったのだ!

 概念と概念が連想(連合)によって結ばれているだけでなく、そもそもあらゆる概念、表象、感覚は、連合によってのみ成立するのである。
 このことはなかなかピンときにくいが、心の働きを、脳の働き、それも神経細胞のレベルにまでさかのぼって考えていくと、それしかあり得ないということがわかる。

我々には、感覚を直ちに連合させることなしに感覚を持つことができない。どんなに我々が両者を概念的には明快に分けたところで、実際のところ両者は単一の出来事に付随したものであり、その出来事は、皮質にある一個所から始まり皮質全体に拡散するものなのである。したがって、表象にとっても連合にとってもその生理学的な相関項を局在するならば、同じ個所にあることになる。そして特定の表象を局在するということは、その表象の相関項を局在することに他ならないが故に、我々は、表象を大脳皮質のあるどこか一点におき、連合をそれとは別のある個所におくということを拒否せざるをえない。両者はむしろ、一点を出発点とするが、どの点にも終息せずに移動し続けるのである。(1-71)

 つまり、視覚刺激であれ聴覚刺激であれ、それが感覚器官から大脳の神経細胞をある興奮させても、それだけでは「感覚」は生じないのであって、その刺激が神経細胞の連合によって他のさまざまな刺激と出会うところに、「感覚」という心的事象が生じるのである。
 このような考えをたどっていくと、脳(身体)と心の関係という、根本的な問題にいきつく。

脳と心の関係

 脳と心の関係がどうなっているか、ということは、不思議で、難解で、興味深い問題である。
 昔から長い論争があるが、大きくは心身一元論と心身二元論がある。一元論の方は、主に唯物論であり、心というものも脳の物質的な働きとして一元的に説明できるというものである。二元論は、脳(身体)と心は次元の異なるものであるという考えで、古くからの、身体に心(霊)が宿るという捉え方と類似性がある。

 フロイトはというと、二元論である。しかし、脳に無関係に独立した心があるという二元論ではない。むしろ、脳の物質的な働きに付随して、ある種の出来事として、心的な事象が生じるということらしい。

神経系における生理学的な事象の連鎖は、おそらくは心的な事象に対して原因と結果の関係にあるわけではないだろう。心的な事象が始まったからといって、生理学的な事象がそこで直ちに止んでしまうことはなく、むしろ生理学的な連鎖はそのままさらに続いていく。この連鎖の一つ一つの構成部分に(或いは複数の構成部分に)いずれかの瞬間からそれぞれ一つの心的現象が呼応するようになるというだけのことである。心的なものはしたがって、生理学的なものの平行現象なのである(「従属的共存付随現象」)。(1-68)

 このような立場から見ると、「神経細胞内に記憶心像が貯蔵される」というマイネルトの考えは、脳における生理学的事象と心的事象とを混同した結果生み出されたものとなる。「表象」とか「記憶心像」といったものは、脳内の生理学的事象に付随して生じる心的事象であって、個々の細胞にとってはなんの意味もなさないのである。

語表象の心理学的図

 すべての表象は連合として成立するわけだが、表象は大きく対象表象語表象に区別され、その有り様が異なっている。その関連を示した図式を以下に引用する。
 これが「心理学的図」であるというのは、例えば図における一つの丸が、脳のニューロンやニューロン群に対応するわけではないということだろう。丸自体も連合として成立しているから、脳の部分としては局在できないのである。

図1-3
語表象は、それ自体で完結した表象連合である。それに対して対象表象は開かれた表象連合である。語表象は、その全ての構成要素からではなく、ただ音心像を経由してのみ対象表象と結びつく。音心像が語を代理すると同じような仕方で対象を代理するのは、対象連合のうちでは視覚的連合である。語音心像と、視覚的連合以外の対象連合との連絡は図に書き入れていない。(1-95)

 「語表象は、それ自体で完結した表象連合である」とは、一つの語が比較的独立した連合として成り立っているということだろう。それに対して、対象表象は他の対象表象と密に連合して、全体で巨大な対象連合を作っている。この図の上の方は、そのような対象連合全体につながっていて、そこにたくさんの独立した語表象が結びついていることになる。対象表象から見れば、語表象との連合は、概念を区別してその論理的操作を可能とするのに役立つことになるだろう。
 ここであげられた図式は、後のメタサイコロジー、例えば『無意識』(1915)における、語表象と対照表象についての議論にもつながってくるところである。

フロイトによる批判の妥当性

 本書で展開されたフロイトの失語論批判が、脳科学の発達した現代的視点から、どれほどの妥当性をもったものであるかというのは興味深いことだ。私には、そのことを判断するに充分な知識もないが、それでもかなりいい線いってるのではないかと思う。

 ヴェルニケ-リヒトハイムの図式や分類は、現代の失語の教科書にも載っているが、それにはあくまでも簡便な理解のためのモデルであるという但し書きもついている。実際の症例では、理論に当てはまらないことが多いのである。

 言語中枢といったものがあるとしても、それはブローカ野やヴェルニケ野を含む、より広範な領域であるという点や、個々の神経細胞に言語表象が貯蔵されることはないという点では、フロイトは正しかったようだ。

 しかし、フロイトが論じた、より根本的な言語の問題や、脳と心の関係については、今なお決着がついていないことが多いようだ。脳科学の大幅な進歩にもかかわらず、未だフロイトの思考に追いついていないというところか。

 本書を読んでいると、フロイトはそのまま失語症の研究者としても充分にやっていけたのではないかとも思える。しかし、そうならなかった理由のひとつは、彼の思考があまりに先を行き過ぎていたということがあるのではなかろうか。科学の進歩には、根気強い検証を積み重ねていくことが不可欠である。天才は、その歩の遅さにつきあっていられなかったということではと。

H21.8.22 記

テーマ:本の紹介 - ジャンル:本・雑誌

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