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W・イェンゼン著『グラディーヴァ』における妄想と夢

W・イェンゼン著『グラディーヴァ』における妄想と夢 (西脇宏訳 2007)
Der Wahn und die Träume in W. Jensens "Gradiva" (1906)

 本論文は、題名のとおりヴィルヘルム・イェンゼンの書いた小説『グラディーヴァ』を分析したものである。であるから、論文を読むにあたっては、その前に題材となる小説を読んだ方がよい。フロイトもそれを勧めている。

 本ブログでも紹介したが、日本では種村季弘氏の翻訳でフロイトの論文と一冊にまとめられた単行本が1996年に出版されている。あまり売れなかったのか、現在新刊本では出回っていないようだが、中古なら手に入れることができる。これは、なかなかすばらしい企画だったので、文庫本で再版などされるとよいのだが。あるいは、中村元氏が光文社古典新訳文庫で出した「幻想の未来/文化への不満」が、フロイトの文化・芸術論をまとめたシリーズの第一弾とのことなので、第二弾あたりで「グラディーヴァ」を原作小説と共に収録するようなことになるとよいなと期待したり。

 「グラディーヴ」は、大変おもしろい小説である。そして、読むのであればフロイトの論文を読む前に、先入観なしに読んだ方がよい。私は幸いに、そのような読み方ができた。正確には、ずっと以前にフロイトの論文をかじっていたと思うのだが、ほとんど覚えていなかったので、新鮮な気持ちで小説を読めた。

 ここから、そしてグラディーヴァ関連の記事は今後も、どうしてもネタバレ的になるので、小説を読もうと決意された方は、ここでやめておいてください。

 もう、いいかな。

 実はこの小説は、作者の仕組んだカラクリが随所に配置されていて、最後の段になってその種明かしがされるという構成になっているのだ。読者は、主人公の体験する妄想に付き合わされるが、最後にはそこから覚醒させられて、「なるほど、そういうことだったのか」と目から鱗の気持ちを味わえる。私はうまいこと乗せられたので、妄想から現実に引き戻される治癒過程を疑似体験をすることができた。
 とにかくよくできているので、このまま映画化したらかなりヒットするんじゃないかとも思った。調べると、すでに「グラディーヴァ:マラケシュの裸婦」という題のフランス映画が作られていて、2008年の3月には日本でDVDが発売されるようである。しかし、こちらはイェンゼンの小説の忠実な映画化ではないようだ。小説からインスピレーションを受けて、ブルトンやダリなどが芸術作品を創作しているらしいから、そういったものをモチーフにした映画なのであろうか。


文学を分析されることへの抵抗

 全集の最後につけられた、道簱泰三氏の解題に目を通して「おや」と思った。氏は、どうやらフロイトのグラディーヴァ論をあんまり良く思っていないようなのだ。一部を引用してみる。

文学作品の批評というより、むしろ文学作品を通して見た精神分析――そこにはある種の暴力とトートロジーの臭いが感じられる――とでも言った方がふさわしいかもしれない。(p.385)

この空想-妄想のつながりがハーノルトの見た夢によってどう解釈できるのか、その証拠固めには解釈としてのさまざまに独断的、暴力的なところも見えるものの、フロイトの関心はその一点にむかってまるで探偵小説のごとく一枚一枚あくまで冷徹にヴェールをはがしてゆく‥‥。そこにはむろん、A・ブルトン(グラディーヴァ画廊)やS・ダリ(グラディーヴァ連作)などのシュルレアリストたちが、現実と夢幻のはざまを漂う『グラディーヴァ』という幻想小説に対して見せた熱狂や感動のかけらはつゆほども見出せない。しかし、言うまでもなく、これこそが、良し悪しは別にして、文学も精神分析のなかに取り込んでいこうとするフロイトの「文学批評」の真骨頂でもあるのである。(p.387)



 「良し悪しは別にして」と言うけど、解説者がブルトンやダリを「良し」、フロイトを「悪し」と思っていることはみえみえだ。フロイトの分析に対して「暴力」、「トートロジー」、「独断的」といった言葉を使い、括弧つきの「文学批判」としている。

 「独断的」という批判はあり得ると思うが、「暴力的」というのはどうなのだろう。どうもそこには、「文学というのは神聖なものであって、読者が勝手に作品を分析したりするのは冒涜だ」といったような考えがありそうだ。そして、それは多分に情緒的な反応なのではないだろうか。

 フロイトが、「かけら」どころか、相当小説に熱中していたことは論文からも伝わってくる。そこからインスピレーションを得て、別の芸術作品を作るか、感動の起源を分析的に考察した論文を作るか、それだけの違いなのではないかと思うのだが。


種明かし

 前の記事で紹介したように、道簱泰三氏は解題で、フロイトが「探偵小説のごとく一枚一枚あくまで冷徹にヴェールをはがしていく」と述べていた。しかし、そもそもイェンゼン自身がこの小説を探偵小説のように仕立てているのである。そして、種明かしは小説の最後でちゃんとなされているのだ。だから、ごく普通に最後まで読んだら、この話がどういうことだったのかよくわかる。フロイトの解釈も、その大筋にそった上で、さらに詳細な精神分析的な解釈を加え、小説が分析理論から見てもいかに筋の通ったものであるかということを示しているのである。

 大筋とは、こういうことだ。主人公ノルベルト・ハーノルトは、若い独身男性である。彼は天涯孤独であり、現実の女性には一切興味がなく、考古学的研究に没頭している。ある時、彼はローマの美術館で若い女性の全身像のレリーフを発見して心惹かれ、レプリカを作って書斎に飾った。彼は女性の独特の歩き方に注目し、「あゆみ行く女」という意味の「グラディーヴァ」という名前をつけて、飽くことなく眺めては空想に浸るようになった。
 ある時ノルベルトは、ヴェスヴィオ火山の噴火に埋もれるポンペイでグラディーヴァと出会う夢を見る。夢から醒めた彼は、旅に出る決意をし、ローマを経てポンペイへと到着した。ポンペイの街を一人でさまようノルベルトは、真昼の時刻に路上を渡って行くグラディーヴァを目撃した。そして、「メレアグロスの家」と呼ばれる遺跡の中で、彼はついにグラディーヴァと邂逅し、会話をすることになる。グラディーヴァは、忽然と姿を消したが、しかし翌日も同じ時刻に同じ場所に現れる。ノルベルトは、これが現実の女性なのか、幻覚なのか、あるいはすべてが夢なのか混乱し、悩む。
 三日目の逢瀬で、ついにグラディーヴァは自分の正体をあきらかにする。彼女は、ツォーエ・ベルトガングといって、ノルベルトの幼なじみであり、ずっと斜め向かいの家に父親と一緒に暮らしていたのだ。ツォーエは、ノルベルトに惹かれていたのだが、彼の方は同年代の女性などには見向きもせず、彼女が近くにいてもまったく気がつかなかったのであった。そして、最後は二人が結ばれて、めでたしめでたし。


無関心の理由

 小説「グラディーヴァ」の主人公ノルベルト・ハーノルトは、独身の男性でありながら、現実の女性にまったく関心がない。恋愛や結婚は、まことに愚かなことと決めつけていて、ひたすら考古学の研究に明け暮れているのであった。
 そんな彼が、なぜか大理石のレリーフの女性に熱中するようになり、名前までつけて空想に浸るようになる。フロイトは、これを抑圧されたものの形を変えた回帰とみるのである。

 しかし、そもそもハーノルトにおける女性への欲望は、どのような理由から抑圧されたのだろうか。小説を読んでも、フロイトの分析を読んでも、はっきりわからないところだ。
 もっとも、男性が女性に対してこのような無関心な態度をとり、かわりに学問に打ち込むというのは、ありがちなパターンではある。一般的には、持って生まれた嗜好性とか、幼少期のさまざまな体験によって決定づけられるのだろう。

 推測するためにも、ノルベルト・ハーノルトの生育歴について知りたいところだが、小説にはほんの少しのことしか書かれていない。両親は彼が小さい頃に亡くなっている。兄弟についても不明だが、おそらくいないのではないだろうか。父の仕事をついで考古学者になり、受け継いだ資産のために自由な生活をすることができた。なんだか、小説を成立させるための都合でおざなりに作られた生い立ちという感じがする。
 そもそもハーノルト自体が架空の人物なのだから、彼の性格や関心の方向がいかにして生じたかなど考えてもあまり意味はないが。それでも、いろいろ想像するのは楽しいものだ。


幼馴染

 前記事の続きで、ノルベルトはどうして女性に無関心になったかということ。ちなみに、ノルベルト・ハーノルトのことを小説では名前の「ノルベルト」と呼ぶことが多いのに、フロイトは「ハーノルト」と姓で呼んでいる。なぜだろう。

 ノルベルトの生育歴の詳しいことはわからないが、最後にグラディーヴァの正体であるツォーエ・ベルトガングが登場して、彼と彼女とは幼少期にごく近しい仲であったことが明らかになった。彼らは何かの契機で離れてしまったわけではなく、その後もすぐ近くに住んでいたのであるが、ノルベルトの方からしだいに疎遠になってしまった。
 ツォーエとの想い出が忘却され女性一般に向けられる欲望が抑圧されたとなると、その原因自体も彼女が作ったのではないかと推測したくなる。つまり、ノルベルトにとって、ツォーエにまつわる何か外傷体験のようなものがあったのではないか。

 ツォーエはどちらかというと、お転婆な娘だったようである。そして、小説後半のツォーエ=グラディーヴァが、ノルベルトと対話する場面でも、彼女のほうがサディスティックで、ノルベルトはマゾヒスティックな態度をとっているように見える。幼い二人の関係においても、ツォーエの強引で征服するような愛にノルベルトがたじろいで逃走するといったことがあったのではなかろうかと、想像してみる。


蜥蜴のモティーフ

 小説「グラディーヴァ」では、蜥蜴(とかげ)が重要なモティーフになっているようだ。ノルベルトが、最初にグラディーヴァの空想をする場面から蜥蜴は登場する。空想の中で、グラディーヴァはポンペイの真昼の街頭を渡っていく。

そのあいだをグラディーヴァは踏み石を渡ってあゆみ、緑金にきらめく蜥蜴を踏み石から払いのけた。(「グラディーヴァ/妄想と夢」p.11)



 そして、旅に出たノルベルトがポンペイの遺跡で、初めてグラディーヴァを目撃するシーンでも、大きな蜥蜴が踏み石に横たわっていて、近づく人影にするりと逃れた。空想どおりの場面が実現したのである。

 さらに、グラディーヴァとの2回目の逢瀬の後、ノルベルトは親しげに話しかけてくる紳士に出会う。彼は蜥蜴の調査をしている動物学者らしく、特にファラグリオネンシスという蜥蜴の生息に興味を持って追跡していると言う。実はこの紳士、グラディーヴァ=ツォーエの父親リヒャルト・ベルトガング教授であった。

 この場面の影響を受けてか、ノルベルトはその晩奇妙な夢を見る。夢の中で、グラディーヴァは蜥蜴を捕まえようとして言う。「ちょっと、そのままじっとしていて――あの女の同僚のいっていた通りだわ、この装置はほんとに便利。彼女はこれを使って大成功したのよ――(同p.79)」。

 ツォーエは幼少期から父と二人で暮らしてきたが、その父はアルコール漬けの蜥蜴にばかり関心を向けて娘のことなんかかまってくれなかったのだった。そして最後の場面で、ツォーエはノルベルトとの結婚を父が許してくれなかった場合には、めずらしい蜥蜴をつかまえて、娘とどっちを選ぶか選択させるという手を使えばよいと提案するのだった。

 フロイトは、蜥蜴についてはあまり詳細な分析はしていない。しかし、蜥蜴がペニスを象徴すると考えれば、ツォーエにとってはペニス羨望の態度であり、ノルベルトについてはグラディーヴァを「男性を虐待する女性」といった風に見ている、といった解釈もできそうだ。


抑圧からの回帰

 ノルベルト・ハーノルトは、幼い頃近所の少女ツォーエと親しい関係であったことをすっかり忘却していしまった。この忘却を、フロイトは「抑圧」という語で呼んだ方がよいだろうと提案している。彼は、他の女性すべてにも興味を失い、考古学の学問の世界へと逃げ込んでしまった。
 しかし、抑圧されたものは回帰する。

回帰するものは、担い手となった抑圧するものの中や背後に身を潜めつつ、最後にはわれこそは抑圧されたものである、と高らかに勝利を宣言して姿を現すのである。(9-38)


 つまり、ハーノルトの場合には、抑圧されたもの=ツォーエとの想い出は、抑圧の担い手=考古学の中から回帰したのであり、それがグラディーヴァについての空想であった。
 この説明のために、フロイトはフェリシアン・ロップス(1833-1898)という画家の銅版画をあげている。編注によれば、これは1878年作の「聖アントワーヌの誘惑」という作品とのことである。私は知らなかったが、ネットで調べると独特の画風で今風に言えば「エロ・グロ」の作品をたくさん残しているようだ。行儀のよい人の顰蹙を買いそうな絵だ。


数学への逃走

 性欲を抑圧する手段として、学問に没頭するということはよくある。また、学問への集中を邪魔をする最大のものは、異性への関心を含めた広い意味での性欲であるということも言えそうだ。
 学問にもいろいろ分野があるが、「性的なことから気をそらすものとしては、数学が最大の名声を享受している(9-39)」のだという。

 自分のことを振り返ってみれば、中学から高校の時に一番好きな学科は数学であった。たしかに、数学は人間くささとは対極の純粋に抽象的な思考の学問である。難しい証明問題の答えがわかったた時の快感というのはなんともいえない。この快感は異性への関心とは表面的には別種のものだが、美しい理想的な体系に憧れて求めていくという点は共通しており、やはり昇華されたリビードがそのエネルギーになっているということは納得いく。
 ちなみに、高校時代にならった数学教師は、数学を愛しつつ、異性への関心も旺盛なことを隠さないおおらかな先生であった。


ポンペイの魅力

 小説「グラディーヴァ」がポンペイを舞台にしているということは、フロイトがこの作品に興味を持つにあたって重要なことだった。鼠男症例では、抑圧された思いで痕跡を分析治療で再構築することを、ポンペイの遺跡とその発掘に例えて説明している。

 周知のように、ナポリ近郊にあるこの都市は、西暦79年のヴェスヴィオ火山の大噴火によって一瞬にして滅亡した。当時の人々にとっては大惨劇であったのだが、このために当時の街の暮らしがすばらしい完全さで保存され、発掘によって復元されたのであった。

 ここからの類似で、外傷体験の想い出は、抑圧によって意識から遠ざけられるために、却ってその後の体験によって磨り減らされることなく、活き活きした力を発揮し続ける。その作用によって作られるのが神経症の症状である。分析治療の目的は、抑圧された想い出を発掘することによって、症状形成のメカニズムを断ち切ることである。

 精神分析という発掘作業は、患者には症状からの解放を、分析者には忘却されたかに見えた幼少期の体験についての貴重な知識をもたらし、それによってフロイトはひとつの心理学体系を築き上げた。

 精神分析とポンペイの遺跡には、さらに偶然とは思えないアナロジーがある。ポンペイの守護神は、美と恋愛の神ウェヌスであった。街には娼館が立ち、男女の交わりを描く鮮やかなフレスコ画も残っている。抑圧されたものは、性的なものであったということ。

 小説では、主人公ハーノルトと、ツォーエの父ベルトガング教授が、それぞれの学問的関心に惹かれてポンペイにやってくる。そこには、昇華された性欲動追及としての学問ということが表現されているのであろう。


治療者ツォーエ登場

 自室に飾ったレリーフを見て空想に浸るハーノルト。この時点では、まだ彼は正常の心理状態にいる。つまり、現実と空想との区別がついている。
 ところが、ポンペイでグラディーヴァを目撃したとたんに、客観的な視点から言うと、そこで目撃した女性をグラディーヴァと信じ込んでしまったとたんに、彼の思考と判断力は混乱して病的な域に達してしまったのだ。(正確に言うと、彼がポンペイの夢に触発されて、旅立つ時から、その非合理的な思考ははじまっていたのではあるが。)

 グラディーヴァの正体であるツォーエの立場から見ても、さぞかしこの出会いは驚くべきことだっただろう。密かに思いを寄せていたハーノルトと、思いがけない場所で会ったことも、さらに彼が自分のことをとんでもない勘違いして捉えているということも。

 普通ならここで、「なにをおかしなことを言っているの!」で終わりになってしまうところだが、そうはならなかった。彼女は、ハーノルトの妄想をささえる空想が、変形されたツォーエへの思慕から成立していることを鋭く見抜き、早速その「治療」に乗り出したのであった。

 この治療における重要な技巧は、言葉に二重の意味をもたせることである。妄想を真っ向から否定してしまえば、関係が終わってしまう。かといって、妄想に調子を合わせているだけでは、いつまでたっても現実に戻ってこれない。
 そこで、ツォーエは、ポンペイから蘇ったグラディーヴァの言葉としても理解でき、かつそこに自分とハーノルトの関係を暗示するように二重の意味を持つ言葉によって語りかけるのであった。


妄想と夢における二重性

 ツォーエ=グラディーヴァは、ハーノルトに二重の意味を持つ言葉で話しかけた。一つの言葉で、グラディーヴァの物語と、ツォーエの物語とを同時に語ろうとするのである。

 この二重性は、ハーノルトの妄想の二重性と対応している。妄想の中で、彼はまさにグラディーヴァと対話していると思っている。妄想のこの表向きの内容の下には、本人も気づかない無意識的な欲望、すなわちツォーエに対する性愛的な欲望が潜んでいる。その欲望は抑圧されたが、力を持ち続け、そして変形されることでついに意識的な生活の中に表現されることを許されたのだ。このように妄想は妥協の産物なのだから、その不満足感がさらなる妄想形成の原動力となるのである。

 妄想の構造は、夢の構造と同じである。夢は、意識される顕在夢内容の背後に、潜在夢思想を持っている。潜在夢思想は、そのままの形では実現せずに抑圧された欲望であり、歪曲されることではじめて意識的になることができたのである。


第一の夢

 ノルベルト・ハーノルトは、ヴェスヴィオ山が噴火してポンペイが滅亡する日に、その場所でグラディーヴァに出会う夢を見た。フロイトの分析は、3つのポイントを指摘している。

 第一に、夢の中でハーノルトがグラディーヴァと「思いがけないことに同時代に生きている」ということは、グラディーヴァの正体であるツォーエと同時代に生きていることを示している。
 第二に、グラディーヴァの息切れた顔が石像のように変化していくくだりは、彼の関心がツォーエから石像に移ってしまったことを表している。
 第三に、夢を見ている最中の不安は、拒絶された性愛的欲望を表し、それは階(きざはし)にグラディーヴァが横たわるシーンに見て取れる。

 フロイトの分析は的確だと思うが、私としてはこれにひとつ付け加えてみたいことがある。夢の中で、グラディーヴァがとっている態度である。
 彼女は「独特の、周囲に目もくれぬ無関心な面持であるいていった(小説p.15)」のであり、ハーノルトが心配して警告の呼びかけをすると、こちらにくるりと頭を向けたが、「しかし素知らぬ顔でそれ以上気にとめることもなく、これまで通り行手をさして歩をすすめた」のであった。
 夢の中でグラディーヴァがとった態度は、まさにハーノルトがツォーエや、女性一般に向けた態度そのものではないのか。つまり、これはハーノルトとツォーエの立場を夢の歪曲によって逆転した形で表現しているのではなかろうか。
 現実においては、積極的なツォーエの態度に怖けづいて逃げ出したのはハーノルトの方であった。その外見上の無関心の裏には、燃え上がる性愛的欲望に危険を感じて抑圧する彼がいたのではなかろうか。

 それと、もう一つの思いつきだが、ヴェスヴィオ山の噴火ということ自体も、男性的な性欲の放出ということを象徴しているのではないだろうか。この点にもフロイトは触れていないが。


小説における偶然

 小説においては、いろいろな偶然の出会いといったものが、物語の重要なポイントになる。しかし、これが現実にありそうもないような偶然だと、読んでいる方はしらけてしまうこともある。

 さて、小説「グラディーヴァ」では、ポンペイの夢を見て旅に出ることを思いついた主人公ハーノルトが、最終的にたどりついた先がポンペイであった。一方ツォーエの方は、動物学者の父がいつものように発作的に蜥蜴の調査に出掛けることを思いつき、そのお供についてポンペイに来たのであった。そこで、二人は再会するのだが、果たしてこれは単なる偶然なのだろうか。

 この点については、小説では特に何も触れていないので、普通に読むと単なる偶然なのかと思える。フロイトも特に分析していない。しかし、私はここは偶然ではないと考えたい。

 ハーノルトは、幼馴染のツォーエ・ベルトガングと斜め向かいに住んでいた。彼女の家で飼っていたカナリヤの鳴き声は聞こえていたが、彼女のことはすっかり忘れていた。これだけ近くに住んでいれば、当然彼女の生活場面を見聞きする機会はたくさんあるはずなのだが、彼女のとの想い出を抑圧していたために全く注意が向かなかった。
 ツォーエの父が学問的調査のために、しばしば旅行に出掛け、彼女もついて行っていたこと。とりわけ、ポンペイ付近の蜥蜴に興味を持っていたこと。そういった事柄の会話は、ハーノルトの耳に時折入り、無意識を通じて彼の空想や夢に影響を与えた可能性はある。
 ポンペイ行きを急に決めて、あたふたと準備するベルトガング家の様子も、おそらくハーノルトは無意識に聞いていたのだろう。それは、ポンペイでグラディーヴァと出会う夢を作り出し、覚醒してから旅立ちを決意させ、最終的にポンペイに彼を向かわせた。

 以上の構成は、私の想像であるが、このようなことはあながちあり得ないことではない。そう考えた方が、ずっとおもしろい。


旅立ち

 ポンペイでグラディーヴァと出会う夢を見たハーノルトは、突然路上でグラディーヴァの歩き方をする女性を発見するが見失い、さらには向かいの建物のカナリヤの鳴き声を聞くうちに、旅立ちの決意をした。後で分かったことだが、グラディーヴァに見えた女性は実はツォーエであった。カナリアはツォーエの家のものだった。

 ハーノルトは行き先もはっきり決めずに旅立ったが、ローマからナポリと道をたどりポンペイを訪れる。そこでグラディーヴァと出会って、はじめて彼自身この旅行の目的が最初からグラディーヴァを追い求めることだったと思い至ったのであった。

 この旅立ちに至る経緯を、フロイトはツォーエへの性愛的欲求の回帰とそれを抑圧しようとする力とのせめぎ合いと見た。前者はグラディーヴァに似た女性その実ツォーエの発見とカナリヤへの注目であり、しかしそこまで近づいてもツォーエそのものには行き当たらずに、最終的にはグラディーヴァという妄想の方向へと逃走してしまう。それが旅立ちの意図であった。

 以上がフロイトによる構成だが、前の記事で書いた私の想像とは、ツォーエからの逃走という点で反対になっている。しかし、大きなまわり道をして、最終的にツォーエへの性愛が勝ったのだと考えれば、両方の構成が共に成り立つことも可能なのではなかろうか。


第二の夢

 性愛からの逃避として旅立ったハーノルトだが、ローマに行ってもアテネに行っても周りは新婚旅行のカップルばかりでうんざりであった。皮肉なことだが、逃げれば逃げるほど追いかけてくるのは、主張する性愛と抑圧しようとする傾向との葛藤によって、自ら招いた結果なのだからしかたがない。おまけに、滞在先のホテルでは、アウグストとグレーテという熱々の二人の隣室になって、壁越しに聞こえるいちゃついた会話に悩まされる。その晩に見たのが第二の夢である。

 またまたヴェスヴィオ山が噴火したポンペイである。そこに現れたのは、カピトリーノのウェヌスを荷車か何かに乗せて、ギシギシきしらせながら運ぶベルヴェデーレのアポロであった。

 フロイトは「この夢を解釈するのに、いずれにせよ格別の技術は必要でない」とだけ書いている。当然過ぎて言うまでもないということだろうが、つまり露骨な性行為への欲望を表した夢ということだ。


動機が大事

 ハーノルトは、グラディーヴァとの出会いに際していろいろと不合理な思考をしている。目の前に現れた女性が、古代からよみがえったグラディーヴァであるとするにはおかしな点がたくさんあるのだが、彼はそれらの矛盾に目をつぶって信じきっている。

 フロイトの心理学ですばらしいところは、動機を大事にすることである。人が不合理な事柄を信じてしまった場合、それは彼の判断力が低下したためと考え勝ちである。しかし、判断力の低下はあらゆる方向に起こるわけではない。その人が、信じたい方向に起こるのである。つまり、信じたいという動機が根本的な要因であって、判断力の低下は二次的に生じるのである。

 フロイトはおもしろい例をあげている。ある医師は、自分の治療上のミスによってバセドー病の女性患者を亡くしてしまったと気に病んでいた。数年後、目の前にその女性の姿が現れた時、彼は「死者がよみがえることができるというのはやっぱり本当なんだ(9-80)」としか思えなかった。実は、その女性は患者の妹であることがわかった。そして、その医師とはフロイト自身のことであった。

 常に合理的な思考を手放さないフロイトにして、一瞬ではあるがオカルト的な現象を信じてしまった。女性患者にまつわる罪責感、彼女が生きていてくれたらという願望、それらの強い動機によって判断力が低下してしまったのだ。


夢は知っている

 ハーノルトがグラディーヴァに二回目に会った後、彼はいろいろと妙な出来事を体験した。蜥蜴の調査をしている動物学者との出会い。太陽館(アルペルゴ・デル・ソーレ)という宿屋では、主人の言葉を信じていかがわしい骨董品の留金を買い込んだ。

 その晩に見たのが、第三の夢である。物語は、いよいよクライマックスに近づいている。その日に体験した奇妙な出来事には、真実のヒントが散りばめられていた。ハーノルトは意識の上ではそのことに気づいていないが、無意識的には知っていたのだ。

「どこか太陽の下でグラディーヴァは坐っていて、蜥蜴を捕まえようと草の茎で罠をこさえている。さらに彼女は「ちょっと、じっとしていて――あの同僚女性が言ってたとおり、この方法は実にすばらしい。彼女はそれを使って大いに成果があったのよ」と言う」。(9-81)



 この夢の潜在夢思想は、ツォーエが父と共に太陽館に滞在しており、ハーノルトのことを蜥蜴のように捕まえて夫にしようとしているということを表現している。
 夢を見ながらハーノルトは、「これじゃ全くの気違い沙汰じゃないか」と思うのだが、この感想はそのまま潜在夢思想に向けられたものでもあった。


確信の由来

 太陽館でいかがわしい骨董品の留金を買って立ち去るハーノルトは、とある窓辺に生けてあるアスフォデロスに目をとめると、それを留金が本物である保障であると思う。
 骨董品が本物であるかどうかと、窓辺に生けたアスフォデロスは何の関係もないのだから、ハーノルトの思考はなんとも不合理である。妄想知覚と呼ばれる病理現象に近い。

 フロイトの考え方はこうだ。ハーノルトの感じた確信感自体はまっとうなものである。それが、骨董品の真偽ということと結びついているから不合理に見えるだけである。その確信感は、本来は抑圧されて無意識的な別の考えに結びつくべきものなのだ。
 別の考えとは、「ツォーエはこの太陽館に泊まっていたのか」ということである。アスフォデロスは、ハーノルトがグラディーヴァ=ツォーエに贈った花だったのだ。


偽なるものへの擁護

 前の記事の続き。ハーノルトの妄想における確信感は、抑圧された真実から、意識上にある別の事象へと遷移した。フロイトは、この例を妄想における確信感の成立と持続ということに一般化して論じている。

 妄想の特徴とは、常識的に考えたらありそうもないことを、根拠もなしに確信することである。フロイトによれば、この確信感は本来別の真実に結びついていた感情であり、それが別のものに遷移したが故により強固になってしまったのだという。妄想は、偽りであることの埋め合わせをするかのように、強く確信され主張されるのである。

 さらに、この原理は正常心理にも拡張される。

われわれ誰もが、真偽一体となっている思考内容にみずからの確信を付着させ、その確信を真から偽のほうへと拡張させるのである。(9-90)



 たしかに、自分自身を振り返っても他の人たちを見ても、真実そうなことは「本当かな」と自信なさげに言う傾向がありそうだ。「絶対に正しい」などと強く主張される事柄には、充分に注意しなければならない。そこには、偽りだからこそそれを擁護せねばならぬという、感情的な動機があるのかもしれない。


能ある鷹は爪を隠す?

 グラディーヴァが蜥蜴取りをする第三の夢(注)には後半がある。夢の中でハーノルトが「実際これはずいぶんばかげた話だ」と思い、最後には、「どうやら、笑い鳥が蜥蜴を嘴にくわえて運び去ってくれたらしい(小説p.79)」となる。

 フロイトの解釈によると、昼間の体験においてツォーエが立ち去った後に聞こえた笑い声は、笑い鳥ではなく彼女がハーノルトを笑い飛ばしたものであることを、夢は明らかにしているのだという。さらに、アポロンがウェヌスを運び去る第二の夢との連想にも触れている。

 この部分には、独語版全集につけられた長い注釈がつけられている。笑い鳥=グラディーヴァ、蜥蜴=ペニスといった象徴により、この夢がなまなましい性的な意味をもつことに、フロイトは気づいていながら韜晦(とうかい:あえて隠すこと)したのだろうという推測だ。

 先の記事で、私も蜥蜴のモチーフをフロイトがあまり解釈していないことを指摘したので、注釈を見て「やはりそうか」と思った。しかし、もしそうだとするとなぜフロイトはそんなことをしたのだろう。「象徴解釈を乱用している」といった批判を想定して、慎重な分析にとどめたのか。

注:この記事では、小説に出てくる三つの夢に対応させてこう呼んでいるが、フロイトの文章では真ん中の短い夢は省略されて、蜥蜴取りの夢を「第二の夢」としている。


恋人の中に妹を見る

 独語版全集の注釈では、フロイトが第二の夢の解釈において性愛的な内容を意図的に韜晦したのではとの推測が述べられていた。同じように感じられる箇所がもう一つある。それは、ハーノルトが宿で見かけた若い男女に好感をいだくシーンである。

 それまで露骨にいちゃつく新婚さんに辟易としていた彼であるが、この二人のことは初めて好感をもって眺めたのであった。ハーノルトは、彼らを仲の良い兄と妹であろうと推測する。しかし、翌日に人気のない遺跡で二人が熱い接吻をしている場面に出くわし、恋人同士であることを知った。

 ここのところは、小説ではとても印象的な場面であり、何か意味深いものがありそうに感じる。フロイトの分析はあっさりとしていて、ハーノルトが抑圧された性愛的傾向を再び承認するための準備段階として捉えられている。親密な恋人に嫌悪感を持っていた男が、兄妹のように見えるからという口実のもとに、カップルに好感をいだくという見方であろう。ここでは、当然「近親相姦的欲望」といった解釈が出てきそうなのだが、その記述はない。

 ただ、後で追加された「第二版への補遺」の中に示唆と思えるところがある。そこでは、イェンゼンの他の小説を紹介して『グラディーヴァ』との関連を述べている。

イェンゼンの最後の小説(『市井の方外』)は、詩人自身の青春に由来する多くの事柄を含み、「恋人の中に妹を見る」男の運命が描かれている。(9-106)



 ハーノルトのグラディーヴァ=ツォーエへの想いには、「恋人の中に妹を見る」側面があったかもしれない。そして、それは彼がツォーエへの想いを抑圧した動機になった可能性はないだろうか、などと想像してみる。

テーマ:書評 - ジャンル:本・雑誌

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