2017-04

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不気味なもの

不気味なもの(藤野寛 訳 2006)
Das Unheimliche (1919)


 「不気味さ」という、この独特の感情に注目したというところがすばらしい。この目のつけどころのよさが、この論文のすべてであるといっても過言ではなかろう。


 不気味さというのは独特な心の動きである。単なる恐怖とは違う。ほとんどの人がそれを体験したことがあるだろうから、それがどんな感覚かよくわかるだろう。

 一方では、誰もが同じように不気味さを感じるわけではない。不気味さを研究する上でのむずかしさのひとつは、「この感情の質に対する感受性が、各人の違いに応じて著しく異なって見出されるという事実である(p4)」という指摘がある。そして、フロイト自身はこのことについて「普通以上の鈍感さしか持ち合わせていない(p4)」のだそうだ。


 不気味さに対する感受性の違いは、ひとつには各人の世界観にあると思われる。

 例えば、「幽霊の証拠」というものがあったとして、それを次の各人が不気味に感じるかどうかを検討してみよう。


1.幽霊をまったく信じない人

2.幽霊を完全に信じている人

3.幽霊の存在に半信半疑の人


 さて最初の人は、本当にみじんも信じていないのであれば不気味には思わないだろう。その一見幽霊の証拠と見えるものが、なにか別の形で合理的に説明できると考えるだろう。
 2番目の人も、また別の理由から不気味とは感じないだろう。彼にとっては幽霊の存在は当然のことだから、それを危険な動物のように恐れることはあっても、不気味には思わないだろう。

 不気味さを体験するのは3番目の人であろう。「幽霊なんていないと思っていたのに、まさか、そんな、怖ろしい」と、背筋がぞーっとする。(この辺の描写、へたくそで申し訳ない)そういうのが不気味さというものだ。


 実は、上の分類で1や2に完全に該当する人というのはほとんどいないのではないか。現代においては1番目の、科学的合理的世界観をもった人というのは多いが、それでもオカルト的な疑惑を完全に払拭できている人というのはどれくらいいるだろうか。ホラー映画なんかでも、「幽霊なんか存在しない」と豪語する科学者タイプの登場人物が実は一番怖がったりする、というのはありがちな設定である。

 また2番目のような人も、実際に幽霊の証拠をそんなに頻繁に見ているわけではないから、それを目前にしてはたして平然としておられるかどうか。


 というわけで、ほとんどの人は霊的な存在について半信半疑な思いをいだいており、それがこういった物事に対して不気味さを感じるための前提条件になっているということがいえるだろう。


H18.12.8



不気味の谷現象


 論文「不気味なもの」では、冒頭で各国語の不気味に相当する言葉や、ドイツ語の不気味unheimlichの反対語である"heimlich"の意味について、辞典を長々と引用している。

 これを真似して、日本語の「不気味」について辞書で起源を調べてみようと思ったが、あまりおもしろいのが出てこない。どなたか、この辺りのことをよく知っている方がいたら教えてください。


 そこで気をとりなおして、現代の便利ツールであるGoogleで「不気味」を検索してみた。

 すると、トップ2件に出てきたのが、「不気味の谷現象」という言葉。最近話題になっている概念なのだろうが知らなかった。


不気味の谷現象-Wikipedia


 上記ウィキペディアの記事によれば、これはもともとロボット工学上の概念なんだそうな。ロボットの概観や動作を人間に近づけていくと、かえってそれが不気味な印象をいだかせるようになるのだという。さらに最近では、映画やゲームでコンピュータ・グラフィックで作られた人間が、リアルでありながら微妙に違うことで、あたかも死体が動いているかのような不気味さをかもしだすということが指摘されており、これも「不気味の谷現象」で説明されている。


 フロイトの「不気味なもの」でも、これと似たことはが論じられている。以下は、全集より引用。




E・イェンチュは、「一見したところでは生きている存在が、本当に生命が吹き込まれているのか疑わしいケースと、逆に、生きていない事物がもしかして生命を吹き込まれているのではないと疑われるケース」をその(不気味なものの)顕著な事例として際立たせ、その際、蝋人形や精巧に作られた人形、自動人形が感じさせる印象をその拠り所にした。(p16)





 うーむ、確かに蝋人形は不気味ですな。子供の頃に見た東京タワーの蝋人形館を思い出す。あれは今でもあるようだけど、昔とは変わってしまったのだろうな。


 さて、フロイトは動く人形の不気味さを認めつつ、子供が人形が動くことを欲するという事実と対比させて考察していく。



誰もが覚えているように、遊び始める年頃にあっては、子供はおよそ生きているものと命のないものをはっきり区別したりはしない。ことの他好んで人形を生きている存在のように扱うものだ。(P26)





 たしかに、子供はおもちゃや人形に魂を吹き込んで遊ぶ。そういうことができるから、子供は大人よりも遊ぶのが得意なのだともいえよう。


 この、「魂を吹き込む」(これはフロイト表現ではないが)ということが、不気味さを考える上でポイントになるのではないかと思う。

 子供は、いろいろなものに好んで魂を吹き込む。しかし、大人になると、魂を吹き込む対象は、生きている人間に限定される。


 魂を吹き込むことについての迷いや誤りが、蝋人形やコンピュータ・グラフィックスで作られた人間の不気味さをかもしだすのではないか。さらには、死体や癲癇発作の不気味さも同じようなしくみで生じるのではなかろうか。

H18.12.9



「ホフマン短篇集」を読む


 「不気味なもの」では、E・T・A・ホフマンの短篇小説「砂男」を、不気味さを考察するための題材としてとりあげている。現在この小説を読もうと思ったら、岩波文庫の「ホフマン短篇集」がよいだろう。書店には並んでいないが、下記のようにアマゾン・マーケットプレイスなどで中古で手に入れることができる。(その後再版されたようで、以下のリンクでは新刊本で買えます。H21.8.8)


ホフマン短篇集


 この短篇集に収録されているのは、以下の6作品である。


クレスペル顧問官

G町のジェズイット教会

ファールンの鉱山

砂男

廃屋

隅の窓


 どの話にも、愛と狂気と死といった共通するテーマがあり、独特の世界観、人生観がある。私が特にいいと思ったのは「クレスペル顧問官」と「G町のジェズイット教会」で、この2作品では上記のテーマに加えて、究極の芸術というモティーフが感動的であった。

 ただ、これらの作品は、こと「不気味さ」という点になると、同時代の読者にはおそらくかなり怖ろしい印象を与えたであろうが、今となっては気の抜けたビールのように思える。素材は良いので気が抜けてもおいしいが、新鮮な時にはもっとよかったのだろうなと。


 思うに、芸術作品における不気味さというのは比較的賞味期限が短いものなのではなかろうか。それは、不気味さを引き起こす前提条件に、それを感じる人の世界観という、時代に左右されやすい要因があるからだろう。

 ホフマンの作品が、今となってはそれほど不気味に感じられないひとつの理由は、それをかもしだすための重要なモティーフであるはずの「狂気」が、現代においては精神疾患として科学的視点から解釈されるようになっているからだろう。

 しかし、狂気を疾患ととらえる現代的な理解は、その本質を正しくとらえているのであろうか。ホフマンの作品は、そんなことをも考えさせてくれた。


蛇足

 フロイトの論文でも言及されているが、オッフェンバックのオペラ「ホフマン物語」は、ホフマンの作品をもとに作られており、そこに自動人形のオリンピアも登場している。「ホフマンの舟歌」という有名なメロディーは、名前を知らない人でもどこかで聞いたことがあるだろう。不気味さとは無縁の美しい曲だ。



H18.12.10



去勢不安


 フロイトは、ホフマンの「砂男」において不気味さを作り出している最も中心的なものは、「子供の目をえぐり取る砂男のモティーフなのである(p18)」と論じている。

 次に彼は、「目をめぐるこの不安、盲目になるかもしれないという不安が、かなりの場合、去勢不安の代替物である(p23)」という主張をする。


 こういったところが、フロイトに心酔するか、嫌いになるかの分かれ道になるのかもしれない。


 「目をめぐる不安というのはよく理解できるが、それが去勢不安だなんて、ぜんぜん納得できない。著者の思い込み、きめつけ、でたらめではないのか。」と、フロイト・アレルギーになってしまう人も多いのではないか。

 そんな人にこそ言いたい。「ちょっと、待ってください。あきらめないで、もう少し読み進めてください。」


 ここで、ちょっと姑息なフロイト・アレルギー克服法を提案したい。

 「姑息な」というのは、性的な意味合いを薄めた表現によって一般的に受け入れやすい論述をすることを、フロイトは嫌ったからだ。それを承知の上で、あえてここではひとつの「おきかえ」をするが、あくまでも暫定的な理解のためと心得ていただきたい。


 去勢不安とは、親による去勢(ペニスの切り取り)に対する子供の不安である。通常、男の子が母親に抱く近親相姦的欲望(エディプス的欲望)は、父親による去勢威嚇によって妨げられ、これによって男の子はその欲望を断念し、エディプスコンプレクスは没落する。(今回の全集での訳語統一になるべく合わせた言葉づかいをこころがけている。)


 ここで言葉のおきかえをする。


去勢威嚇 → 大人が子供の欲望を禁止するためになす、おどし

去勢不安 → 上記に対する子供のおそれ


 このように考えると、われわれの感じる不気味さのある部分が、幼児期の大人からのおどしから発している、ということは比較的すんなりと納得できるのではないか。


 大人というものは、子供の教育のためとか保護のためとか称して、子供をおどすものである。それは実は大人の都合による場合も多いのであるが。

 そして、一昔前にはそのために便利な「怖い話」というものがたくさん語り継がれていた。砂男は、そんな話のひとつである。「不気味なもの」にもフロイトによる要約として描写されているが(p18)、岩波文庫のホフマン短篇集(池内紀訳)の方が文学的な表現なのでそちらを引用する。




「ぼっちゃまはご存知なかったのですか?悪い男でございますよ、子供たちがベッドにいきたがらないとやってきて、お目めにどっさり砂を投げこむのでございますよ。すると目玉が血まみれになってとび出しますね。砂男は目玉を袋に投げこみまして半分かけたお月さまにもち帰り、自分の子供に食べさせるのでございますよ。砂男の子供たちは半月の巣の中におりましてね。ふくろうみたいに先のまがった嘴をもっていて、その嘴で夜ふかしの子供の目玉をつつくのでございますよ」




 子供は夜なかなかベッドに入りたがらないし、親はそれを寝かしつけるのに苦労する。このあたりは、古今東西共通しているようだ。砂男の話がホフマンによる創作なのか、実際に伝承されたものなのかは知らないが、いずれにせよありがちなお話しで、日本の民話にも似たようなものはありそうだ。

 なぜ子供は夜寝たがらないのか、なぜ大人は躍起になって寝かしつけようとするのか。その答えは、子供の寝た後に禁じられた大人たちだけの時間があり、そのことを子供のほうでもうすうす感じているからであろう。


 砂男のような話しを子供は本気で信じてしまうものだから、教育効果は抜群で大人にとって都合がよい。しかし、子供の心に残される禍根はいかばかりのものであろうか。大きくなって、そんな妖怪は架空のものだとわかってからでも、これらの禍根は潜在し、不気味さをひきおこす源になっているのかもしれない。


H18.12.14



ドッペルゲンガー


 不気味さをもたらすモティーフとして、ドッペルゲンガーについての考察がなされる(p27-p30)。

 ここの部分は難解で、正直よく理解できない。しかし、後の論文「自我とエス」などで超自我の概念に発展するような内容の萌芽を含んでいるようだ。重要なところだろうから、じっくり読んでいこう。一方では、こういう難しいところは何度も読んだからわかるというわけでもないので、疑問を残しておいて他の論文を読んでから繰り返し立ち返るということも大事である。


 ドッペルゲンガーとは、通常自分自身の生き写しの姿を見るような体験のことをいうが、フロイトは「自我の二重化、自我の分割、自我の交換」などをも含んだ、幅広い概念として取り扱っている。


 「ドッペルゲンガーとは、もともと、自我の没落に掛けられた保険だった」という。自我の没落とは、一次ナルシシズムにおけるすばらしい私(自我)が、現実的な私(自我)に落ちぶれることであろう。落ちぶれるといっても、実際に落ちぶれるのではなく、より正しい認識になるだけなのだけれど。

 「保険をかける」ということは、一次ナルシシズムの時点で、自我の没落は予感されているのだろうか。それとも結果として保険となったということなのか。

 いずれにしても、一次ナルシシズムの段階では自我は万能すなわちなんでもOKだから、二重化であろうが分割であろうがお手の物であろう。しかもそれは、この時点では不気味でもなんでもない。

 自我が没落して現実的な姿になっていっても、ドッペルゲンガーの表象は生き残り、そこには「克服された古いナルシシズムに属していると見えるものの一切合財」およびその他もろもろの、後の自我からは切り離されたものが割りふられるのだという。

 これが、自我の中に形成された「別の審級」であり、自我理想あるいは後に超自我として定式化されるものである。


 で、超自我がドッペルゲンガーからできるということと、ドッペルゲンガーの不気味さはどう関係があるのか。

 ヒントとなるのは、「観察妄想という病理的事例にあたっては、この審級は、孤立化されて自我から分裂」するということである。

 だいたい、超自我というものは自我にとっては目の上のたんこぶのような、うっとうしい存在だから、外界からの脅威という形に投影されやすい。それがドッペルゲンガーの不気味さと関連があるのか。

 あるいは、自我がやすやすと分裂するといった、一次ナルシシズムの時代のふるまいが、成熟した自我にとっては異様に思えるということなのか。


 あまりよくわからないので、推測ばかりの話になってしまった。

 この3ページ程の中には、「自由意志という錯覚を結果的に生み出す抑え込まれた意思決定」とか、なかなか意味深長そうないいまわしがいくつかある。またいつかふりかえってみることにしよう。


H18.12.16



反復強迫


 不気味さをひきおこす要因としての反復強迫についての言及(p30-p32)。


 反復強迫とは、欲動の最も根源的な性質として後期理論に導入された概念であり、次の「快原理の彼岸」で詳しく論述される。「不気味なもの」のこの部分は、その先駆けである。

 フロイト自身の体験談も交えて、同じ道に何度も戻ってしまうことの不気味さや、同じ番号が繰り返しあらわれる偶然の不気味さなどの例があげられている。

 誰もが経験したことのあるような例でわかりやすい。しかし、それがどうして不気味なのかというところはよくわからない。


 ここで私流の解釈を述べる。おそらくは不正確なものなので、フロイトの言葉を理解する上で訳に立つなら参考にしてください。


 反復を求めることが人間心理の根本的性質であることは、幼児が好んで反復的な遊びをすることなどから推察される。後に、成熟した心理はこの根本的性質を否定しようとする。すなわち、心は創造的で独創的で新奇なものを求めるのであって、反復的なものは退屈で無意味であると。このような常識的理性的観念によって普段は否定されているところの反復への根源的欲求が、運命のごとく外から押しつけられるように体験される際にわれわれは不気味さを感じる。

 かつてわれわれは、反復を欲していた。また、かつてわれわれは自らの思考や欲望が直接現実になることを信じていた(思考の万能)。

 成熟した心はそれらのことを否定している。だからこそ、それが目の前に現れるとぞっとするのである。


 不気味さとは、われわれが現在目の前にしている現実の隙間から、かつて慣れ親しんだ根源的な世界がもれ出てくる時に体験される感情であろう。


H18.12.26



人はなぜホラーを見たがるのか



 フロイトは、ホフマンの「砂男」の他にもたくさんの「創作された不気味さ」の例をあげて分析している。

 現実の不気味さと、創作された不気味さとは区別して考える必要がある。創作された不気味さの方が、はるかに豊かな感情を含んでおり、抑圧された幼児期のコンプレクスと関連したものが多い。同じような題材、例えば無生物が動きだす、ということが作者の設定如何によって不気味になったり楽しく滑稽なものになったりする。


 フロイトは明確には述べていないが、ここには「そもそも人はなぜ創作された不気味さを求めるのか」という問題と、その答えが両方含まれている。

 芸術の中に不気味さをひきおこす素材が豊富に存在するということは、とりもなおさずそれを求める人がいるからだ。そして、われわれが不気味さを求めるのは、それがかつての親密なものであり、抑圧の後に両価性を帯びるようになったからであろう。現実の不気味さは嫌でも、フィクションという安全保障のある条件では、不気味さを楽しむことができるのである。


 今日においても、「ホラー」と呼ばれる分野の小説、漫画、テレビや映画などがひっきりなしに創作され、多くの人がそれを見たがっている。


 こういうと、創作においては不気味以外にも不快な要素が存在するではないか、例えば「悲劇」はどうだ、と反論されるかも知れない。

 悲劇すなわち創作された悲しみは、不気味さの場合とは違う。それは大抵、「喜び」ということと対になってあらわれるのであって、人が求めているのはむしろその喜びの方なのであろう。一番多いのは、禁じられ不幸な結末に終わった恋愛の話だが、この例では悲しみによって恋愛感情がより高まり強い余韻を残す効果をあげるのである。


 創作された不気味さは、悲劇とは違い、それ自体が欲求の対象となるのである。


H18.12.29



死の不気味さ


 死や死体の不気味さについて考察がなされる(p36-37)。


 ここは次の「快原理の彼岸」でもたっぷり論じられるところなのでさらりと行こう。死とはもともと積極的な概念ではなく、生との対比において初めてでてきたものであるというのがフロイトの持論のようだ。つまり、人間は死を、勝手に大層なものとみなしている。そこに独特の意味を創り出している。


 おそらく人だけが、死体を不気味に思う動物であろう。不気味に思うのは、そこに霊を感じるからであろう。霊は、喜ばしく、かつ怖ろしい。喜ばしいのはその人とまた会えるからであり、自分が死んだ後にも存続できるからである。怖ろしいのは復讐されるからである。

 死体が帯びる不気味さには、そういった両価性がある。


 死は、「殺す」ということとも結びついている。死体を前にした人間は、その者を自分が殺したのではないかと、実際には殺してなくても、そう思う。それは、自らの中に殺したいという欲望があったからである。心理学的には、自分が彼を殺したのであるから、彼からの復讐を怖れるのは当然なのである。


H18.12.30



露骨な表現


 この記事の題は、「不気味な女性器」にしようかと思った。しかし、記事の題はいろいろな検索等でひっかかってくるので、公序良俗に反するサイトと誤解されても困る。


 別の方面からの反発も予想される。「『女性器が不気味だ』などとは、女性蔑視でありけしからん」といった声である。


 フロイトは、男女の心理学的違いといったことにもしばしば考察をめぐらし、その際に女性蔑視ともとれなくはない発言をして、いろいろと批判されている。

 ただ、ここでは男女というファクターと、個人ごとに多様性を示す心理学的特徴との相関について、学問的に検討しているのである。社会において、男女が同等の権利と機会を持つべきであるという主張とは直接関係はないのである。


 という前置きの後に引用。



神経症の男性が、女性の性器は自分にとって何かしら不気味だと断言するということがしばしば起こる。この不気味なものは、しかし、人の子にとっての古の故郷への入口、誰もがかつて最初に滞在した場所への入口なのだ。(p41)





 そこから出てきたのだから「出口」であるようにも思うが、「入口」ということで近親相姦的欲望を暗示しているのだろうか。

 女性器の不気味さは、去勢との関連から(つまり女性器=ペニスを切り取られた状態)論じられるのかと思いきや、そうきたか。まあ、近親相姦と結びつけると同じところにたどりつくのだが。


H18.12.31


テーマ:書評 - ジャンル:本・雑誌

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