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2018-08

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快原理の彼岸

快原理の彼岸(須藤訓任 訳 2006)
Jenseits des Lustprinzips (1920)


 いよいよ、「快原理の彼岸」を読む。言うまでもなく、この論文はフロイトの著作の中でも最重要級のものである。
 どうしても力んでしまうのだが、まあリラックスしていこう。他人がどう評価しようと、自分で読んでどう思うかが大切である。「王様は裸だ!」と言う勇気も持とう。


 これまで私は、主にちくま学芸文庫の「ジークムント・フロイト自我論集」に収録された中山元氏の訳で読んできた。この本は、文庫本で手に入りやすく、フロイトの重要な理論的論文を収録している。しっかりした読みやすい翻訳で、竹田青嗣氏の解説もつき、実にお得である。


 フロイト研究会でもこの論文についてのレジメを掲載している。↓


http://www21.ocn.ne.jp/~sfreud/sem/tyukyu/tyukyu5.htm


 この文章を書いてからもう10年にもなる。あらためて読み返してみると、われながら、なかなかわかりやすくできている。10年たっても私のフロイト理解はあまり進んでいないということでもあるか。

H19.1.6



後ろから読む「快原理」



 「快原理の彼岸」は難解なので、何回読んでも途中でわけがわからなくなってしまう。発想を転換して後ろから読んでみるのはどうだろう。


 この論文は、ある詩人(「ハリーリーのマカーメン」におけるリュッケッルト)の句の引用で終わっている。



"Was man nicht erfliegen kann, muß man erhinken.

................................................................................................

Die Schrift sagt, es ist keine Sünde zu hinken."

                   GW,XIII-69


「飛翔によって成し遂げられぬものは、跛行しながら成し遂げなければならない。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

跛行はなんら罪ではない、と聖なる書も言う」。

                    全集17巻p125




 注釈によると、アル・ハリーリー(1054-1121)とは、アラビア人文法家で作家であり、マカーマートとは韻律を伴った短い散文のこと。フロイトが引用したのは、リュッケルトがが翻案した本におさめられた「2つのグルデン」というマカーマートの最後の数行だそうだ。


 この句にこめられたフロイトの思いとは、いかなるものなのか。

 「本来なら飛んで行きたいところだが、それができない以上、不本意ではあるが這ってでも行かねばなるまい。」と、そんなところであろうか。


 彼自身はこの言葉を、科学的認識の進展の遅さについての慰みであると記している。しかし、この引用はもっと多くのものを、「快原理の彼岸」という論文全体によって示される彼の決意といったものをも暗示しているように思われる。


 科学的認識の進展が「速い」と感じるか「遅い」と感じるかは、個人の価値観によるところもあるだろう。フロイトにとっては、遅かったのだ。

 なぜなら、彼は天才だからわかってしまった。心についての真理にかなりせまるところまで、直感によって到達してしまったのだ、と私は想像する。

 その真理を、科学的に実証して、皆にわかるように説明する。フロイトはそれを精神分析という方法論によってこつこつと続けてきた。ただ、その歩みはまことにゆっくりとしたものであった。


 この時期、晩年にさしかかろうとしている彼にとって、これまでの方法で成し遂げることはもはや無理だと思えてきたのではないか。

 心についての真理をなんとか皆にわかるように説明したいが、この際もうなりふりかまっている場合ではない。不本意だが、いろいろとかっこわるいことをしてでも、自分が得たものを表明しておきたい。

 それが、この「快原理の彼岸」という論文なのではなかろうか。


 例えば、第IV節は次のようにはじまっている。



 以下は思弁である。往々にして度の過ぎた思弁であって、各人はそれぞれの立場からそれについて評価したり、無視したりすることであろう。(17-75)




 思弁とか哲学的思考とは、フロイトが若い頃しきりにふけったものであるが、学問の世界に入ってからはそれを表明することに関してはかなり慎重な態度をとってきたのである。

 その思弁をあえてする。科学的な根拠もしめされず、ただの空想的、抽象的観念と非難されればその通りかもしれない。


 また、この論文では他にみられない程、生物学や哲学など他の広範な学問からの引用がみられる。

 論理的にも飛躍が多い。人間の心理と単細胞生物といった、あまりにもかけ離れたものを一緒くたに扱っているように見えるところもある。


 以上のように「快原理の彼岸」は欠点だらけのようにも見える。フロイト自身そのことは百も承知だっただろう。にもかかわらず、これは出版しなくてはならないものだったのだ。そのような決意のほどが、ハリーリーの引用に込められているように私には思える。

H19.1.8



想い出の痕跡



 フロイトが到達していたのではないかと想像される真理に、意識の本質ということがある。フロイトといえば無意識の発見者のように思われているけれど、精神に無意識の部分があることはそれ以前から多くの人が指摘しており、別に目新しいことではない。そんなことより、意識の本質ということの方がはるかに重要でありながら不可解な事柄であろう。


 フロイトはいくつかの著作で「記憶と意識の相互排他性」という命題について述べている。非公式にはフリースに宛てた手紙の中で、さらに夢判断の論理的部分で、そしてこの「快原理の彼岸」で再びこのことに言及している。



 意識の出現について、ほかの典拠からはいかにわずかのことしか知られないかを考えてみるならば、意識は想い出-痕跡の代わりに出現するという命題には、少なくともまだしも判明な主張としての意義が認められるべきであろう。(17-77)



 この命題については、「フロイト研究会」の中で、私なりの考察を試みたので、興味のある方は以下を参照して欲しい。


http://www21.ocn.ne.jp/~sfreud/sem/oyo/oyo1.htm


 さて、今回の全集をみて、「おや?」と思ったのは、「想い出-痕跡」という言葉である。

 ちくま学芸文庫の中山元氏の訳では、「記憶の痕跡」となっていた。原文での語は、"Erinnerungsspur"であり、「記憶の痕跡」の方が自然な訳に思われるが。


 今回の全集がこの妙な訳語を採用した理由は、すぐにわかった。上記引用の同じ段落、少し前のところに、"Gedächtnisspur"という語があり、こちらの方が「記憶-痕跡」と訳されているのである。ちなみに、中山氏の訳ではこちらも「記憶の痕跡」となっているので両者が原文で異なる語になっていることはわからない。


 ドイツ語にErinnerungとGedächtnisという、記憶を意味する2つの語があることから、これらを訳し分けるという困難が生じたようだ。「想い出」というのは、かなり苦しまぎれのような気もするが、原文が2つの「記憶」という語を使用しているということを気づかせてくれたという点は勉強になった。この2つの語のニュアンスの違いといったことについては、今後の課題としよう。


 もうひとつ翻訳のことで気づいた点は、同じ「想い出-痕跡」にみられる「-(ハイフン)」のこと。ドイツ語では、"Erinnerungsspur"のように、2つの単語をくっつけて1つの単語が形成されることがあり、これを著者が独自に作ってしまうこともけっこうあるようだ。こういう場合に全集の訳ではハイフンを使ってあらわしていることがあるようだ。


 今回の全集では、なるべく逐語的に正確な訳をするということを重要な方針としているようである。そのために日本語としての自然さが犠牲になることがあるかもしれないが、しかたがない。頭の中で補ったり変換したりしながら読んでいこう。


追記(2007.1.13):ErinnerungとGedächtnisの違いについて、標準版英訳全集ではどうなっているか調べてみると、双方を"memory"と訳しており、特に別の単語を使ってはいないことがわかった。


H19.1.10



快原理の此岸



心の出来事は快原理によってその経過が自動的に制御される、とわれわれは精神分析の理論において無頓着に仮定している。(17-55)



 「快原理の彼岸」の冒頭部分である。快原理の彼岸(向こう側)に行くためには、まずは快原理そのものをしっかり理解しておかなくてはいけない。論文の第I節は快原理について、特にそれを経済論的観点(心をその量的な側面から見る視点)から説明することに費やされている。


 フロイトが敬遠されるひとつの理由は、なんでも性欲に結びつけるといったことよりも、むしろここに挙げた引用にも示されるような決定論的な考え方による方が大きいのではないかという気がする。

 ここにはわれわれが常識的に仮定しているような「自由意志」といったもの入り込む余地はない。心的装置は、快や不快をもたらす様々な要因を計算して総合的に最も快が多くなるように自動的に制御されるのだ。


 その際に決定的な要因となるのが「量」である。経済論的視点は質よりも量を重視する。質の違うものどうしをも量で比べて決着をつけようとする、といった方がよいか。

 資本主義経済では、貨幣によって物の価値が一元的に決まるので、質の違う物を比べることができる。すべては値段に換算して計算することができる。商品の価格をいくらにしたら店の利潤が最も上がるかとか、限られた収入をどう振り分けて消費すれば一番効率的に家計がやりくりできるか、といったことが計算できる。

 そんなようなもので、心の成り立ちも、快と不快の損得勘定。

 その損得勘定をするための原理が、恒常性原理である。一つひとつの心的出来事について、それにまつわる興奮の量を加減していって、総量が最も少ないようにする。心はそんな風に働いているよ、というのが恒常性原理である。


 ここで興奮の量と、快・不快とは単純な関係にあるわけではない。量が減ると快がもたらされ、量が増えると不快が感じられる。量の時間あたりの増減(興奮量の微分)が快・不快と比例するのかも知れない。

 すなわち、快 = ーk × d興奮量/dt という式が成り立つ。(kは定数、tは時間)

 と、いうことをフロイトはいわんとしているのだと思うが、きわめて曖昧な記述である。同様な趣旨は「夢解釈」第7章の論理的記述部分にみられるし、さらにそのベースとなったフリースへの手紙(「心理学草案」)にもある。


 このような見方に、我々の常識的観念は異を唱えたくなる。「私たちはそんなことで自分の行動を決めているのではない。私たちにも自由意志がある。」と。


H19.1.15



自由意志と現実原理



 前回、フロイトの経済論的観点には「自由意志」の入り込む余地はない、と述べた。もっとも、この個所では自由意志について、あるともないとも言及されていないので、単にそういう概念を使わずに話しをすすめているというに過ぎない。

 ただ、論文「不気味なもの」には「自由意志という錯覚を結果的に生み出す抑え込まれた意思決定(17-29)」という言葉があることは以前の記事で指摘した。やはり、フロイト自身「自由意志」のことは否定的にとらえていたのだろう。


 そこで、もしこのことをフロイトに尋ねてみたら、ということを想像してみる。


重元「フロイト先生、先生のメタサイコロジイ論文を読んでいると、『人間には自由意志がない』とおっしゃっているように思えるのですが、そこのところはどうなのでしょう。」

フロイト「君の言う、『自由意志』とはどんなものかね。」

重元「確かに、先生のおっしゃるとおり、人間も他の動物と同じように快原理の影響を受けていると言わざるを得ません。でも、我々はただ単に欲望に身をまかせるだけではなく、たとえ不快なことであっても自分で正しいと考える道を選んだりする自由意志があるではないですか。そこが他の動物と違うところでしょう。」

フロイト「おっしゃることを私の言葉で言い換えれば、人間において快原理は部分的に現実原理によって修正されるということすぎません。あなたの言う意思決定は、快原理だけでなく現実原理にも配慮してなされるということでしょう。しかし、なぜあなたはそのことを『自由意志』と呼ぶのでしょう。」

重元「だって、我々の自由意志というのは、なにか『原理』といったものに規定されるものではなく、我々が自由に選択するものだからです。」

フロイト「原理によって規定されるのでなく、あるいは気まぐれや偶然で決まるのでもない、『自由な決定』とはどんなものでしょうか。あなたはなにかそれを、ナルシス的に過大評価していませんか。」


 フロイトの言葉を勝手に想像するのは気がひけるのでこのくらいにしておこう。ただ、我々が「自由意志」ということを持ち込みたいと思うのであれば、それが何なのかということをきちんと定義してからでないといけない。

H19.1.15



フロイトの「くせ」



 第II節と続く第III節では、快原理と矛盾するかもしれない4つの事例について述べられる。


第II節

外傷性神経症

子供の遊び


第III節

神経症患者の精神分析的治療における反復

人間関係がいつでも同じ結末に終わる人々


 難解な論文の中で、この部分は比較的具体的で理解しやすい。

 そうは言っても、フロイト独特の論述における「くせ」のようなものに慣れていないと少しわかりにくい。

 「くせ」というのは、最終的に述べたい結論の前に、それに対する反論や別の可能性について、かなり念入りに議論するということだ。これは彼の誠実で慎重な学問的姿勢によるものであり、物事はそんなに単純ではないということを反映しているのだろうが、別の可能性として挙げられる説の方が説得力を持ってしまい、結論の方がかすんでしまうことさえある。


 4つの事例は、反復強迫が快原理よりも根本的な原理であるということを証拠づけるために挙げられているのであるが、まずはこれらの例を従来どおりの理論の枠内でなんとか説明しようという試みがなされる。特に、2番目の子供の遊びの例では、ほとんど従来の理論で説明できそうな勢いだ。


 ま、確かに、そんなに明瞭に反復強迫の根本性を示す例があるのなら、フロイトたるもの、最初からそのことに気づくようなものだろう。反復強迫とは、根本的な原理でありながら、いろいろな修飾によって覆い隠され、表面からは見えにくくなるのだろう。


 反復強迫が根本的なもので、快原理よりも優先されるということは、3番目の、分析的治療における反復の考察において、はじめてはっきりと打ち出される。ここはフロイトが治療的実践の中で直接経験したことに基づいており、論拠としてはもっとも重要なものであろう。

 これに比べると他の3例は、分析に関わらない一般の人々をも説得するために持ち出されたような風にも思える。最後の、人生における反復強迫の例などは、「日常生活の精神病理学」のノリだ。


 こうして、「快原理の彼岸」についての、とりあえずの結論が出る。


 反復強迫の過程を正当化するものは十二分に残されているし、反復強迫はわれわれには、それによって脇に押しやられる快原理以上に、根源的で、基本的で、欲動的なものとして、現れてくる。(17-74)




H19.1.19



触れられたくない過去



 第IV節以降は、絶望的に難しい。途方に暮れてしまう。

 この難しさを読んでいない人に説明すること自体むずかしいのだが、フロイトの示す仮定的モデルがどういう事実と合致するのか、どういうレベルの話しなのか、すぐについて行けなくなってしまう、という感じかな。荒唐無稽で筋違いと思えるところもある。しかしなにか意味ありげで真実をついているように感じられるところもある。


 解説等でも触れられていることであるが、第IV節で提示される仮説は、かつてフリースへの手紙で展開された心理学モデル(全集第3巻収録予定の「心理学草案」)と重なりあうところが大きい。このモデルは、ニューロンネットワークによって心理学を構築しようとする壮大な試みであるが、フロイト自身によって公にされなかったばかりか、後にその原稿が残存していることを知った彼は必死になってそれを廃棄させようとしたという。その草案をわれわれが読むことが出来るということは、フロイトの意図には反するものの、いやだからこそ、大層意義深いことである。


 心理学草案自体非常に難解なのだが、とりあえずひとつは大きなヒントが得られる。草案では、ニューロンによって心の働きを説明しようとする。これは文字通りの局所論なのである。5年後の「夢解釈」で展開される局所論は、あくまでも比喩的なものであって、脳神経の局所とはとりあえずなんの関係もないものとされる。つまり、ここでフロイトは脳と心理をつなぐ理論の構築を一旦あきらめたわけだ。しかし、そのために後の理論では却ってわかりにくくなってしまったところもある。


 「快原理の彼岸」は、直接的には「夢解釈」の理論を継承しており、したがって心理学的な意味での局所論という前提も受け継がれているはずである。しかし、解剖学との関連をほのめかす以下のような記述がみられる。


このような仮定によってわれわれはなにも新たなことを企てているわけではなく、意識の「座」を脳皮質、つまり、中枢器官のもっとも外側をなす被覆層に置く脳解剖学の局在説に準拠しているにすぎない。(17-76)



 このような記述はやや行き過ぎであったり、我田引水的に見えるところもある。ただ、第IV節の記述は、純粋に心理学的なものと考えるより、脳のニューロンをイメージしながら読み解いていく方がわかりやすいだろうと思う。


H19.1.15




第IV節要約



 「快原理の彼岸」第IV節についての重元流の要約と解釈。どこまでがフロイトの言説でどこまでが私の勝手な解釈かは明記していないのでご注意を。


 心の装置(≒脳)は、快原理に従ってその成り行きを決める。これはおおむね正しいが、快原理がきちんと働くためには前提条件がある。それは、心の装置に流れ込んだ興奮が、それぞれのニューロンによって一旦拘束され、定められた回路にしたがってその興奮を伝え、最終的に行動や意識作用によって興奮を消滅させることである。これは、われわれに外界からふりかかる出来事が、われわれの記憶に刻まれた過去の諸体験から想定される範囲内にあり、したがって定式的に適切な判断ができる場合である。


 外傷体験においては、この前提が成り立たなくなる。心の装置は突然想定外の出来事にみまわれる。準備の出来ていないところに、過剰の興奮が押し寄せるために、心の回路は興奮を適切に拘束できず、快原理は破綻する。


 快原理が働かない時にも、より根本的な原理である反復強迫は働いている。反復強迫は、生物が生きる上での原動力たる欲動の、基本的な性質である。快原理が働いている時でも、反復強迫は働いているが外からは見えにくくなっている。これは、外見的には異なるが意味的連想によって結合したものを反復しているからである。快原理は最終的には反復強迫に奉仕する。


 外傷体験の記憶は、快原理が破綻した状況で刻まれた、特殊な記憶である。この記憶は、外傷の状況を再体験することを反復強迫的に求める。これは、元の体験において拘束しきれなかった興奮を、再体験の中で拘束して適切に処理しようとする試みである。


 快原理をより高度なレベルで達成するために、記憶のシステムがある。記憶とは、心の装置に残される痕跡であり、ニューロン回路の編成が変化することである。有機体が、入力aに対して常にbという出力していたのに、ある出来事以降は、入力aに対してb'を出力をするように変化したということ、これが記憶の事実である。


 記憶の積み重ねによって、ニューロン回路はより込み入った編成になり、そこに流れ込んだ興奮はより複雑な経路を経て放出されるようになる。心の装置全体としては、より高度の判断に基づいて振る舞いを決めるようになる。


重元の推測:外傷体験の記憶が特殊なものであるとのことだが、通常の記憶もより小規模ではあるがやはり外傷的であり、だからこそ痕跡を残すことになるのではないか。完全に想定内の出来事に対してはそれまでと同じ対応をするだけでよく、記憶痕跡を残す必要がない。記憶の蓄積とは、小さな外傷体験(おおむね想定内だが少しだけ違う体験)の積み重ねであり、その結果、興奮は紆余曲折の後にしか放出されなくなるということなのではないか。


 有機体は、外界からの圧倒的に大きな刺激から身を守るための外殻をそなえている。これは、もっとも単純な生物から極めて高度に発達した動物まで共通した構造である。

 有機体がホメオスタシスを保つためには、内と外とを完全に遮断してはだめなので、外からの刺激をほんの少しだけ受け入れ、それによって適切な振る舞いを決める必要がある。これが感覚器官の役割である。


 中枢神経系を持ち高度に発達した動物では、感覚器官で捉えられた興奮は神経を伝って脳の知覚システムにもたらされる。知覚システムは意識のシステムでもある。そこでは、興奮は痕跡を残すことをせず、一部は意識化によって消滅し、一部は記憶システムに伝えられる。記憶システムでは、興奮はそれぞれのニューロンによって拘束されつつ遅延しながら伝達され、行動への通路に向けて放出される。その過程で、あらたな記憶痕跡が残される。


重元の推測:感覚器官も知覚システムも、流入する刺激や興奮に対して選択性をもつ。感覚器官においてはこの選択は主に構造的なしくみによるが(例えば眼は、光を捉えるような構造になっている)、知覚システムにおいては、もちろんそれ自体のニューロン回路の編成にもよるが、さらに記憶システムからの要請によって決まるところもあるのではないか。例えば、物を見るときに、過去の記憶からある種の物を期待しつつ見るからこそ、その認識が成立するというような。知覚における、内から外への能動性ということ。この件については、フロイトの論文「『不思議のメモ帳』についての覚え書き」でさらに考察される。


H19.1.27




生きることは死ぬこと



 第V節では、いよいよこの論文の中心となるテーゼが登場する。


欲動とは、より以前の状態を再興しようとする、生命ある有機体に内属する衝迫である。(17-90)


あらゆる生命の目標は死であり、翻って言うなら、無生命が生命あるものより先に存在していたのだ、と。(17-92)



 これらの命題は一見ぎょっとさせられる、意外なものだ。しかし、よくよく噛み締めて吟味すると、確かにそういうものかも知れないと思えてくる。


 欲動とは何か。生命の営みの本質とは、その目指すところはなにか。

 フロイトは、その本質が守旧的であり、反復を目指すものであると結論している。それ以外にはあり得ないということだ。


 われわれの印象では、生命とは、活き活きとして、創造的で、新しいものをめざしているように見える。つまり、生命の目標は「いまだかつて達成されたことのない状態(17-92)」なのではないか、と考えたくなる。


 でも、そんなことはあり得るのか?自然界の動植物の営みを眺めると、それらは確かに反復によって成り立っているようだ。生まれては死に、生まれては死に、同じことの反復、反復、反復‥‥。


 では、人間はどうなのか。われわれのめざすところは、創造であり発展ではないのか。でも、その「創造」とか「発展」って、いったい何なの?と、尋ねられると意外に曖昧模糊としていることに気づく。

 そもそも、人間というものが他の動物と、さほど根本的に違っているとも思えない。他の動物とは違って、ヒトという種にだけ創造性という独特の性質があるとも考えにくい。


 われわれの目に新奇なものと見えるものも、実は幼児期に求めていたものの形を変えた反復である。それらを求める創造的欲求とは、一旦は禁止され抑圧された幼少期の欲動が後に別の形での表現を試みているということであり、それがゆえに一層執拗に満足を追求して止まないのであろう。


 例えば、芸術。これは、世界や母と一体になりたいという、幼児的な欲望の反復である。

 発明や発見、科学技術の進歩。これは、大人の交わしている言葉も理解できず、五里霧中の状況で知的探求を続けた子供時代の再演である。

 個人のライフ・サイクルにおいても、人類の歴史においても、一見創造的で進歩的に見える営みは、すべて反復であり、形を変えた再演である。


 回りまわって、巡りめぐって、戻っていく。より幼稚的なものへ、そして最終的には死の道へ。その迂回路が、創造的という誤った印象を与えるのである。



H19.2.3




アウグスト・ヴァイスマン



 フロイトの生物学への指向性についてはすでに述べたが、「快原理の彼岸」の第VI節では特にそういった引用や言及が多い。


生物学はまことに限りない可能性を秘めた領域であって、まったく思いもよらないような解明が期待できるし、またあと数十年もすれば、われわれが提示した問いに対しどのような答えを寄せてくるか、予見することなどできたものではないだろう。(全集17-120)



 このような言及自体が、今となってみると予言的にも思える。フロイトが知らなかった、そして彼に教えてあげたかった生物学の知識と言えば、DNAの発見を中心とした遺伝の分子生物学の進歩が第一に挙げられるであろう。

 「思いもよらないような解明」と言いながらも、アウグスト・ヴァイスマンについてかなりのページを割いて言及している辺りは、DNAの発見といった未来の知識に肉薄している。


 アウグスト・ヴァイスマン(1834-1914)は、ドイツの動物学者である。多細胞生物が、その世代だけで死滅する体細胞と、次世代へと受け継がれる胚細胞とに最初から分かれているという主張により、獲得形質の遺伝を否定し、また生物学に新たな生と死についての概念を導入したという。彼の理論は、DNA発見によって打ち立てられたいわゆる「セントラル・ドグマ」の先駆けとも言えよう。


 もちろんフロイトはヴァイスマンの理論をそのまま受け入れているわけではないが、かなり大きな関心を持っていたことは読み取れる。


 フロイトが現代に生きていたとしたら、遺伝の分子生物学に関心をよせ、その意味を彼流に解釈し、自らの理論に取り入れて発展させたのではないか。そんな想像をしてしまう。

 それは空想に過ぎないにしても、彼の思考の歩みを読み取り、現代的知識と統合しつつ再解釈することは、残されたわれわれの課題なのではないかと思うのである。



 蛇足であるが、ヴァイスマンの著作が日本語で読めるかアマゾンで調べてみたが、1件もヒットしなかった。おそらく訳書は存在しないのであろう。原書では、フロイトが引用した"Die Dauer des Lebens"など、現在でも新刊書として手に入る。また、英訳もいくつか出ている。

 ドイツ語では歯が立たないので(情けない、とこういう時にしみじみ感じる‥‥)、英訳の中からペーパーバックで安価な"Essays upon Heredity and Kindred Biological Problems V2"という本を購入してみた。古書を復刊させたシリーズのようだが、表題の書の第2巻だけが復刊されたようで1巻の方はリストにも載っていない。論文集のようなので、それでもあまり問題ないのかも知れないが、どうなっているのだろう。



H19.2.20




二元論というモデル



 第VI節以降は難解で、もうよくわからん。生の欲動がどんなもので、死の欲動がどんなもので、従来の自我欲動と性欲動とはどういう関係があるのか。読む程に混乱してしまう。


 しかし、よく考えてみると、欲動という概念そのものが実体のあるものではなく、人間の心や、さらに広くは生物の営みを考えるための、ひとつのモデルを構成する仮定的な概念にすぎないのである。であるから、死の欲動そのものをつきつめて考えていってもわからない話で、モデル全体としてどうかということを考えなくてはならない。


 そう考えると、これは二元論である。二元論であるということに意味があるのであって、2つのうちどちらかを単独に取り出しても意味をなさない。


われわれの見解ははじめから二元論的であり、しかもいまでは、対立する二者をもはや自我欲動と性欲動ではなく、生の欲動と死の欲動として命名するようになっており、それ以来、かつて以上に鋭く二元論的になっている。それに対し、ユングのリビード理論は一元論的である。彼が自分の唯一的欲動力をリビードと呼んだために、混乱が生じずにはおかなかったが、われわれとしてはこれ以上、そのことに引きずりまわされるべきではない。(全集17-110)



 この時期のフロイトはすでに、ユングとの蜜月時代を過ぎ、可愛さあまってにくさ百倍といおうか、この部分でも痛烈に批判しているのがわかる。ユングに対する意地から無理に二元論を固持したのではないか、とも思えるほどだが、それはさておき。


 ともかく、生の欲動と死の欲動は、それらが二元論のモデルを構成するというところにこそ根本的な意味がある。生の欲動と死の欲動は、光と影のように、相互に対照的でありかつ依存的である。一方が存在してはじめて他方が存在し、一方が強まれば他方も強まるのである。



H19.2.21




生命の起源



かつて生命なき物質の中に、いまのところまったく想像不可能な力の作用によって、生命体の特質が目覚めさせられた。

(中略)

そのときには、これまで生命なきものであった材質の中に緊張が発生したが、その緊張は解消されようと努めた。最初の欲動が、無生命へ回帰しようとする欲動として、こうしてもたらされた。

(中略)

長い期間にわたって、生命ある基質は、そのように何度も新たに作られては簡単に死んでいったのかもしれない。しかし、とうとう外的影響に決定的な変化が起こり、そのため、それでも生き延びている基質はもともとの生命の道からますます外れてゆき、死の目標に到達するに当たってますます込み入った回り道をせざるをえなくなった。こうした死への回り道が、守旧的な欲動によって忠実に堅持され、今日では生命現象の姿を呈しているという次第なのかもしれない。(全集17-92)



 生の欲動と死の欲動は、対立しつつも相互依存的なものである。死の欲動の正体を根本までさぐっていくと、それは物質界全体を支配する均質化への傾向、すなわちエントロピーの法則(フロイトはこの言葉は使っていないが)ということになる。

 そういう意味では死の欲動は、生命の誕生以前からあった、とも言えるかもしれないが、光のない世界では闇が何の意味もなさないように、生命のないところでの死は意味をもたない。


 生命の起源についての上記の引用を、現代的視点から補充しつつ考察してみよう。

 最初の生命は、少なくとも2つの特性を持っていたと想定される。


1.自らの複製を作る能力。

2.複製を作る際に、時々小さな誤りがおこり、わずかに違った個体が生み出されること。すなわち個体間に変異を生じること。


 これらは自然淘汰をひきおこすための条件となる。

 そして、簡単に死んでいた最初の生命が、回り道をするようになった経緯というのも、自然淘汰によるものであったろう。

 すなわち、複製が作られては破壊され、ということの繰り返しのうちに、たまたま外的力によく耐える変異が生み出され、それが生き残り広まって定着したということに違いない。


 このように、生命がよりよく生きる術を獲得していく過程というのは、まさに生の欲動の表現と言えるであろうが、その過程そのものに死の欲動が深く関与している。なぜなら、生命が次々に死んでいくということと、複製の誤りという本来破壊的な作用が、自然淘汰において欠くことのできない要素だからだ。



H19.2.22




階層的なモデル



 フロイトの構築したモデルは、二元論であるということの他に、階層的あるいは重層的な構造をなしているという特徴がある。あるレベルにおける2つの力の対立が要因となって、それより上位の別のレベルでの葛藤をもたらすという構造である。


 とりわけ「快原理の彼岸」では、欲動やリビードの概念が、最初の生命や、多細胞生物における細胞間の関係といった、人間心理とはかけ離れたものにまで適用されているので、しばしば面食らう。


 この論文は、フロイトがその時点での知力を尽くし、不確実であったり最終的には見当はずれになることをも恐れずに、真実のぎりぎりのところまでを追究したものだ。


 心は脳の働きからなり、脳は神経細胞からなり、神経細胞の起源をたどっていけば最初の生命にいきつく。これは、今となっては確実な知識だ。

 だからといって、その間のつながりについては、途方に暮れるほど膨大で複雑な連関があることが想定されるだけで、ほとんど何もわかっていない。このことに関してはフロイトの時代も現代も、さして変わりがないのかもしれない。


 ただ、人間心理の本質について理解しようと思えば、その途方に暮れるほどの長いつながりをも視野に入れ、仮説を作っていく必要があるのだろう。


 そこで役に立つのが、二元論というモデルである。2つの力の葛藤は、そのレベルでは完全な解決には至らないために、より上位のレベルでの幾つかの対立しあう流れを生み出し、それらの流れがまたさらに別のレベルでの動きを生み出し‥‥というようなパターンとして全体を捉えるということである。


 さらに、個体というものが、進化によってつくられ、長い時間の中で反復されてきたことをさらに反復すべく、歴史を刻印された存在であるということ。つまり、欲動が歴史を反復しようとする力であるということ。


 生の欲動と死の欲動は、お互いにするどく対立するにもかかわらず、あるいはそうだからこそ、逆説的にも双方を高めあう結果をもたらしてしまう。最初の生命の誕生と同時にこのパターンが始まり、その繰り返しの果てにわれわれの存在があるということ。


 例えば多細胞生物においては、それぞれの細胞が死への傾向を内在しており、ある条件下で自ら死んでいく。しかし、そのことは他の細胞をより長く生きながらえさせ、さらに別の生命を生み出すつながりを創造する。


 ラグビーの試合では、ボールを持った選手が前に突進していくことで、相手選手の強い抵抗を受ける。それらの抵抗を精一杯一身に受けつつ、最後のぎりぎりの所で自らが犠牲になってボールを味方にわたすことによって、ボールは前に進んでいく。(唐突な比喩だが、たまたま今試合の中継をやっているようなので。)生の欲動と死の欲動が織りなすドラマも、このようなものかも知れない。



H19.2.25


テーマ:書評 - ジャンル:本・雑誌

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