精神分析とテレパシー
Psychoanlyse und Telepathie (1921)
フロイト全集17巻に収録されている論文が書かれた1919年から1922年は実に創造的な時期であった。そして、「快原理の彼岸」や「集団心理学と自我分析」といった重要な著作をなすかたわらで、彼は精神分析を通じてテレパシーの研究にとりくんでいた。こう言うと、「へー」という声が聞こえてきそうだ。フロイト嫌いの人なら、「ほら見ろ、やっぱり彼は食わせ物だ」と揚げ足とりの材料にするかもしれない。
本原稿は、1921年の8月に作成され、精神分析の内輪の会合である「秘密委員会」(アブラハム、アイティンゴン、フェレンツィ、ランク、ザックス、ジョーズらによる)で読み上げられたという。「まえがき」にも、その時点で一般に公開するものではないことが書かれている。話題が話題だけに安易に発表しては精神分析の評判を失墜しかねないということで、まずは仲間内でひっそりと発表したわけだ。実際、テレパシーに懐疑的であったE・ジョーンズは公刊に反対であったという。
そんなわけで、本原稿は生前には公開されなかった。しかし、フロイトは1922年には「夢とテレパシー」を発表しているし、本原稿の内容も焼きなおして「続・精神分析入門講義」に収められた。つまり、この件に関して彼自身は慎重でありながらも積極的だったということになる。
H19.4.22
フロイトは幾つもの顔を持っていた。分析治療の実践者としての、心の真実を追究する研究者としての、そして精神分析を広める政治家としての。これらの一般には両立しにくい分野のすべてにおいて高い能力を発揮して大きな結果を残した彼は、まさにスーパーマンであったといってよいだろう。
本著作の最初の部分では、政治家フロイトの顔がうかがえる。彼の状況分析によれば、当時精神分析は「公認の科学」にはいまだ含まれないばかりか排斥されることさえあり、同じような立場のオカルト主義者から同盟の誘いを受けていた。ただ、精神分析とオカルト主義との類似点はそこまでで、真実を追究する姿勢はまるで異なる。
大多数のオカルト主義者を突き動かしているのは知識欲でもなければ、羞恥心――否定しようもない問題に向き合うことを科学はこんなにも長く忽せにしてきたという羞恥心――でもなければ、新たな現象領域を科学の配下に置こうという欲求でもないのです。オカルト主義者はむしろすでに確信し終えているのであって、それにお墨つきをもらって、あからさまに自分の信仰に帰依するための正当化を求めているだけなのです。(17-291)
フロイトは、神秘現象についても頭から否定することはなく、むしろこれに科学的光をあてて真実を明らかにしようという態度をとった。オカルト主義者が主張する事柄の大部分は彼らの欲望成就によって作られた幻影であろうが、中に少しは真実が含まれているかもしれない。そのひとつがテレパシーと呼ばれる思念の感応であると考え、この事柄を追求したのであった。
H19.4.23
どこがすごいのか
テレパシーを含む超能力ということを議論するためには、まずはその定義をはっきりさせておかなくてはならない。それらは、その時点での科学的知識では説明の出来ないか、あるいはそれと矛盾する事象の存在を主張しているのであろう。科学で説明できないこと自体はいつでも無限に存在する。フロイトの時代よりも科学的知識の蓄積された現代においても、いまだ解明されていない人間の能力が存在することについて誰しも異論はないだろう。しかし、超能力というものはそれ以上のことを主張しようとしているように見える。
問題は、それが既存の科学的知識のどの部分と矛盾し、どのレベルでの書き換えをせまる事象なのかということである。科学的追求においていまだ確定しない研究途中の部分についてひとつの仮説を提示するものなのか、あるいはすでに確実となった根本的原理をも覆すようなものなのか。
例えば、テレパシーを、言語を中心とした既知の意思伝達を超えた思念の伝達であると考えれば、以下のようなことはすべてテレパシーに含まれるだろう。しかし、それぞれが科学の知識体系にもたらすであろうインパクトは異なる。
(1)表情や身振りなど、既知の非言語的伝達手段によって、これまで知られていた以上の情報を伝達する潜在能力を人間は有しており、それついて驚くほど高い能力を持った個人が存在する。
(2)嗅覚など、人間がすでに退化させてしまったとされる意思伝達手段が、素質と訓練によって再開発可能であり、それによって驚くべきコミュニケーションを実現できる。
(3)可視光外の電磁波や超音波など、生物学的知識では利用できないとされる媒体を使ったコミュニケーションが可能である。
(4)物理学的にも未知の媒体を用いて、あるいはいかなる媒体も使わすにコミュニケーションが可能である。
また、このような能力がどのように獲得されたかについての仮説も大事である。
(a)他の能力と同様に自然淘汰による進化によって獲得された。
(b)神や宇宙人など、別の知的存在によってもたらされた。
例えば(1)と(a)の組み合わといったつつましやかな主張であれば、「テレパシー」と呼ぶ程のものではないかもしれない。ある人が、自分は他人の表情を見て、当事者が真実を語っているか嘘をついているか70%以上の確率であてることができると主張したとしても、それはすごい能力というくらいのものだろう。同じように表情を読むということでも、相手が思い浮かべた電話番号を読み取ることができるといったことになれば、これは超能力といってもいいかもしれないが、既存の科学知識を根本から覆すというものでもない。
フロイトがどのようなテレパシーを想定して追及していたかはさほど明確ではない。ただ、彼はそれらの事象がいずれ科学的に解明され既知の知識となるだろうと予想している。彼の想定している思念の感応は、ごく普通の人どうしの間でおこるが、通常は目立たず、精神分析の施行によってはじめて明らかになるような性質のもののようだ。 多くの人が潜在的に持っている能力であるということは、科学知識との親和性という点で重要な性質である。それは、(a)の自然淘汰によって獲得された能力のひとつの特徴であるからだ。(多くの人が顕在的に持っている能力でもいいのだが、それでは超能力にはならない。)
H19.4.24
買って出ましょう
本論文では、3つの事例があげられ、それらが思念の転移という現象の証拠となるであろうことが論議されている。これらの事例は、同じパターンをなしている。それぞれの症例は自分の大きな関心ごとについて職業占い師に相談をしており、その占い師の予言が相談者の潜在的な欲望を表現していたのみならず、具体的な細部までをも言い当てていた。また、予言のなされた時点では両当事者はその思念転移に気づいておらず、分析をほどこされてはじめて明らかになったということも、これらの事例の証拠性を高めているとフロイトは考えた。
この予言の説明を買って出ようという方、またその証拠能力には疑念があるという方、大いに歓迎します。この資料に対するわたし個人の態度はぐずぐずとし、両価的なままです。(17-294)
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分母はいかに
フロイトのあげた事例について、思念の転移がなかったという仮定に基づく説明を試みてみよう。
まず、偶然の一致であったという可能性がある。これは、こういった事柄について考える際にまず検討しなければならないことだろう。
ただ一回起こった出来事については、それが偶然であったか、なんらかの要因が働いてそうなったのかは判断できない。例えば通常の経路で意思伝達できないよう厳重に配置された2人の人間が思い浮かべた三桁の数が一致したのを見たら、あなたはテレパシーを信じたくなるかもしれない。しかしそのくらいのことはテレパシーなしでも1000回に一回くらい起こることである。あなたの目撃したのがその一回でなく、まさにテレパシーの証拠だったことを示すには、同じ実験を繰り返し行う必要がある。
現実の出来事の場合には完全に同じことの繰り返しはできないが、同じような条件の事象を結果の如何にかかわらず集めて検証する必要がある。「結果の如何にかかわらず」というところが重要だ。われわれは「あたり」の方には目がいきやすいが、「はずれ」の方はたくさん目にしていても見過ごしてしまいがちなものだから。
フロイトの事例であれば、彼が分析治療を施したすべてのケースに対して過去になされた占い師への相談のことを、はずれたものも含めて全部調べ上げることが望ましい。そこまでやらないと、「都合のよい事例ばかり集めたのだろう」と言われてしまう。
また、「あたり」が一通りだけではないということも重要である。「牡蠣か蟹の中毒」ということを言い当てられた第一事例で、予言の対象となった人物は過去に山で転落しかけたことがある。占い師が「山で事故にあう」と予言したとしても「あたり」になっていたに違いない。
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記憶がつく嘘
テレパシー説への第二の反論は、われわれの記憶というものが実に当てにならない代物であるということである。この点については、フロイト自身が自らの体験もあげながら解説している。
わたしは自分の教授任命後、大臣に謝恩謁見を許されたときのことを想い出します。謁見からの帰り道、わたしは自分が大臣との間で交わされた話を偽造しようとしていることにはたと気がつきました。それ以降、実際になされた談話を正しく想い出すことはできませんでした。(17-305)
記憶というものは、当事者も気づかないうちに、本人の欲するように形を変えていくことがある。第一の事例であれば、占い師の言った言葉は単に彼の義弟が死ぬということだけだったのかもしれない。潜在的に義弟の死を願っていた彼は、占い師の言葉に感銘を受けるあまり、「蟹か牡蠣の中毒で」という言葉を付け加えて、より劇的で実現しそうな予言に変えてしまったのかもしれない。
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すばらしい能力
フロイトへの反論の第三は、占い師はすばらしい「通常の能力」を持っているというものである。つまりそれは、相談者の表情や身振りなどの非言語的情報を通じて、その心を読む能力のことだ。相談者から見ると、誕生日や手相などの情報からずばり結論を言い当てられるようだが、実はその表情を読まれ探りを入れられて結論を引き出されているのかもしれない。
「その人物は‥‥ふむ、死相が表れていますな。(驚きの表情で確信)そう、彼は‥‥事故か(違う)‥‥病気‥でもなく‥‥中毒(図星だ)、そう蟹か牡蠣の中毒で‥‥といば夏の頃ですね、7月か8月に亡くなるでしょう。」とまあ、そんな感じだったのかもしれない。
フロイトは占い師のこうした能力を過小評価していたのではないか。そして、その背景にはもしかしたら次のような事情があったのかもしれない。
精神分析と占いは、悩める人が助けを求めて訪れるという点では似ているところがある。前者は言葉によって過去を再構築していく地道な作業であり、後者は怪しげな道具立てと直感によってなされる。分析家にとって、被分析者が過去あるいは分析中に占い師のもとを訪れたということは、なにか競争心のようなものを掻き立てるところがあるのではないか。しかも、分析において苦労して到達した内面の真実が、占いによっていとも簡単に言い当てられたとしたら。それを占い師のすばらしい能力によるものとは認めがたく、そこに思念の転移といった未知の現象を仮定したくなるのかもしれない。
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コメント
telepathy
日本では、超能力がときどきマスコミなどに取り上げられてブームになることがあるようです。ただ、それが「信じるか、信じないか」という観点からのみ、論じられがちであると私には見えます。
「信じるか、信じないか」と言われれば、私は少なくともテレビにでてくるような超能力の多くを信じない、つまりタネがあると思います。
ただ、いっさいの超能力は存在しないといっているのではありません。今の科学では説明できていない、不思議な能力は人間にまだあるかもしれない。
超能力を科学するのであれば、それがどのような現象であるのか仮定して、実験によって確かめていかなければなりませんね。
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現実の内容は、「世の中は、、、、、」の内容であり、理想の内容は、「あるべき姿」の内容である。これは非現実である。
日本語には時制がなく、日本人は現実 (現在) と非現実 (過去・未来) の世界を独立させて並行して言い表すことが難しい。
非現実 (理想) に向かうための現実対応策が語れない。
現実から理想へと一足飛びに内容が飛ぶ。言霊の効果のようなものか。その過程が明確にされない。
時制を考慮することなく自分の思った内容を述べようとすると、現実肯定主義派と空理空論 (曲学阿世) 派のどちらかに分かれることになる。
これでは政治音痴は止まらない。
両者は話が合わない状態に陥り、議論ができない。そこで、悪い意味での数合わせで、民主的に、物事を決するしかないことを日本人は心得ている。
だから、大連立の構想には意味がある。
守旧派の世界は理想的ではないが、過不足なく成り立っている。革新派の世界は穴だらけで成り立たないことが多い。
安心と不信の背比べである。だから、政治家は静観が多く、意思決定には手間を取る。
静観には現在時制を働かせるだけで十分であるが、意思決定に至るには意思(未来時制の内容)の制作が必要になる。
意思の制作に未来時制が必要であるということは、自分が意思を作って示すことも他人から意思を受け取ることも難しいということになる。
つまり、社会全体が意思疎通を欠いた状態のままでとどまっているということである。
それで、勝手な解釈に近い以心伝心が貴重なものと考えられている。
時代に取り残されるのではないかという憂いが常に社会に漂っている。
だが、理想もなければ、それに向かって踏み出す力もない。
筋道を明らかにされることのない励みには閉塞感を伴う。玉砕戦法のようなものか。
だから、我々は耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ必要に迫られることになる。