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嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について

嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について(須藤訓任 訳 2006)
Über einige neurotische Mechanismen bei Eifersucht, Paranoia und Homosexualität (1922)

 初出は1922年の「国際精神分析雑誌」だが、その前年に執筆され「精神分析とテレパシー」と同じ機会に「秘密委員会」で読み上げられ、その後も加筆されたとのこと(解題より)。小粒な論文だが、かなり気合が入っていることがうかがえる。

 最初に術語のこと。精神分析の用語では、「嫉妬」と「羨望」は比較的厳密に区別される。独語、英語との対応関係は以下のとおり。

Eifersucht(独),jealousy(英),嫉妬
Neid(独),envy(英),羨望

 日本語の「嫉妬」という語は、通常上記の2つを含む幅広い意味を持っているので注意が必要だ。また、日本語で「羨望」と言うと、「羨望のまなざし」などのようにあまり悪いイメージの言葉ではないが、精神分析では(あるいは独語英語一般でもそうなのかもしれないが)羨望は未熟で攻撃的な意味を持つ。「ねたみ」の方が近いかもしれない。特にメラニー・クラインは、羨望という概念を多用した。

 わかりやすく言うと、羨望は一対一の関係において、相手の持っている良いものをねたましく思う気持ち。
 嫉妬は、3人の関係で生じる感情。本人が男であるとすると、愛人(女)が別の男を好きになったのではないか、といった時に燃え上がるのが嫉妬。
 人間が3人からむだけにややこしい。嫉妬という感情は誰に向けられるのか。愛人にか、別の男にか、あるいは2人の関係そのものにか。日本語で「~に嫉妬する」と言う時には、どれも当てはまるような気がするが。

H19.5.5

三角関係

 嫉妬は、3人の人物の関係から生じる。嫉妬自体はもしかすると、愛とか憎しみのようにより単純な情動に分解できるのかもしれないが、3人の人物が関わるだけに複雑なドラマを生む。三角関係が、古今東西の物語の題材となってきたのは周知のごとくである。

 フロイトは、嫉妬を三段階に分けた

嫉妬の三層ないし三段階は名づけてみれば、一、競争の嫉妬、つまり正常な嫉妬、二、投射された嫉妬、三、妄想性嫉妬と呼ぶことができる。(17-343)

 嫉妬を正常から異常へのスペクトラムを形成するものとしてとらえたわけだ。そもそも嫉妬という感情は、もともと正常と呼ばれるような心の営みに収まりにくいものをもっている。

(正常の嫉妬とは)愛の対象が失われたと信じ込まれたがゆえの痛みである喪の悲哀、また、他と区別される限りでのナルシス的傷心、さらに、ライヴァルが優遇されたことに対する敵意の感情、および、愛の喪失を自分の自我の責任にしようとする多少とも厳しい自己批判といったものである。(17-343)

 自分が失恋したときのことを想い出してみるとよい。まずそれは、愛情の対象を失うという体験である。しかしこれは単純な喪失ではなく、愛人が自分とは別の競争者を選んだことによる喪失なのである。そこで、敵意はまずこの競争者に向かう。そしてこの恨みは彼(または彼女)を選んだ愛人へと向かう。(個人的な印象としては、意外にも敵意は競争者のところよりも愛人のところに強く長くとどまるような気がする。それはもともと愛人に向けられていた感情の両価性によるものかもしれないし、あるいはフロイトの指摘した競争者との同性愛的結びつきのせいかもしれない。)そして、最後にそれは自分自身にかえってくる。結局のところ、愛人に選ばれなかった自分がだめなんだ、というわけだ。
 このようなお決まりのパターンで、友人が登場して「世の中にはもっとすばらしい相手もいるから元気出せよ」などとしごくもっともな慰めをしても、当人はなかなか諦められずに悲嘆を続けるというのもまたお決まりのパターンであろうか。

 嫉妬状況が人の心を強くとらえ、なかなか冷静で合理的な判断にもどれないのは、この情動が「深く無意識に根を張り、幼児の情動活動の蠢きを継続したものであって、第一期の性的時期のエディプスコンプレクスないし兄弟コンプレクスに由来しているからである」という。

H19.5.6

至言

忠誠、とくに結婚において要求される忠誠は、絶えざる誘惑に抗してのみ維持されうる。(17-344)

 コメントするのも野暮だが、誤解をまねかないよう念のため。「だから結婚に対して不実であってもよい」と、不倫を勧めているのではない。耐えざる誘惑に抗して維持されるからこそ、忠誠に価値があるのである。

H19.5.7

嫉妬深いということ

 嫉妬というのは当人にとってつらい情動であり、できればあまり抱きたくはないものだ。他者のとの愛情関係がうまくいっている時には、嫉妬にとらわれることはあまりない。カップルの一方が強く惚れ込んでいる場合には、パートナーの浮気になかなか気づかなかったりする。強い片思いにおちいっている人は、相手に交際者がいることを最後まで知らないということもある。

 一方では、些細なことで嫉妬が生じてしまうような状況がある。嫉妬を抱きやすい人というのもいる。事実に不釣合いな強さの嫉妬が起こる場合、それは投射による嫉妬であることが多い。投射というのは防衛機制の一種であって、自分自身の抑圧された感情や衝動を他者の中に見出すことだ。気づかぬうちに不実への欲望を抱いている人が、パートナーの中に不実への欲望を見出し、そのことに嫉妬する。これが投射による嫉妬である。われわれは禁じられた情動を自分の中に持ちこたえるということがなかなかできないので、それを他人の中に捜し求め、それを発見すると大騒ぎするのである。

H19.5.8

動機が大事

 フロイトといえば神経症の治療と理論で有名である。精神病圏の疾患については分析治療の対象とはならないと考えられていた。彼の精神病理論の根拠は、シュレーバー症例という精神病者の自伝と、分析的に関わった若干のパラノイア患者ということのようで、自らの豊かな臨床経験から導き出したものではない。
 にもかかわらず、フロイトの精神病理論はすばらしい、と私は思うのだ。どこがすばらしいかと言うと、彼が動機というものを重視したということだ。

 投射による嫉妬が極端なところまでいきつくと、それは嫉妬妄想になる。が、その間には簡単には乗り越えられない「現実認識」という防波堤がある。嫉妬を投射しようとする波は強い力をもって押し寄せるが、他者と共有する現実という防波堤を突き破るところにまでは容易には至らない。しかし、非常に強い波であればこれを乗り越え、その結果氾濫が起こるであろう。また、防波堤自体に脆弱なところがあれば、このような氾濫は比較的小さな波でも起こるかもしれない。
 打ち寄せる波というのはもちろんさまざまな感情や衝動といった動機のことであるが、防波堤の方もまた他者と現実を共有しなくてはならないという動機によって支えられている。つまりそれは建造物のような静的なものではなく、心的エネルギーを注ぎ続けることによって維持されている。葛藤しあう諸動機が最終的にどこでバランスするかということが心の状態を決めるのであり、それはそれぞれに配分されるリビードの量によって決定される。

注:ここで用いた防波堤の比喩は、私が説明のために工夫したものであり、フロイト自身の表現ではありません。

H19.5.9

蠢き

妄想性嫉妬とは同性愛の嫉妬に関連しており、パラノイアの古典的形態のうちにその位置を占めてしかるべきものである。それは強すぎる同性愛の蠢きに対する防衛の試みであり、(男性の場合)次のように定式化することができよう。
彼を愛しているのはわたしではない、彼女なのだ。
(17-345)

 抑圧された不実への衝動を他者に見出すのが投射された嫉妬であり、それをもっと極端に進めたのが嫉妬妄想であるが、そこまで行き着くためにはより強力な動機が必要になる。その動機が、「同性愛の蠢き」だ。嫉妬妄想では、抑圧された同性愛の蠢きを異性の対象に投射するという機制が働いているというのがフロイトの定式化である。
 このような説明は、「では同性愛者は嫉妬妄想を抱きやすいのか」という誤解を生じそうである。同性愛者は、自分の中の欲求を意識化してそのままの形で表現しているわけだから、投射という防衛をする必要がない。同様に、同性愛的衝動を友情といった形で昇華できている人も、嫉妬妄想に陥らずにすむ。
 では、嫉妬妄想になるのは一体どんな人なのか。同性愛というのは一次ナルシシズムに近いより原始的な対象愛であり、それすらも充分に現実の対象に振り向けることができず、そのような衝動を抱えることに危険を感じて、他者に投射せざるをえないような切迫を感じる人であろうか。現実では同性も異性も充分に愛することができず、しかし愛への欲求には強く悩まされているという人であろうか。

H19.5.10

一抹の真実

 フロイトは、「妄想は真実である」という仮定から出発した。しかも、それは単に妄想が当事者にとって心的現実であるということを言っているだけではない。客観的に見ても、そこに少しは真実があるのではないかという仮定を立てている。この点がすばらしい。

 妻への嫉妬妄想の事例では、当人は自分の無意識的な不実を妻に投射するのであるが、何もないところに投射するのではない。妻のほんの些細なしぐさの中に不実の兆候を嗅ぎ出し、それについて極端な拡大解釈をしたのであった。こうして見ると、「妻が浮気をしている」という訴えにも1パーセントくらいは真実が含まれていることになる。

 このような発言を妻は否定するだろう。周囲の人もそれに同調するだろう。こうした「客観的事実」と合わないから、この男の発言は妄想と判断され、彼はパラノイアと診断される。彼の発言にも1パーセントの真実が含まれているのだが、それは周囲の「正常な人」にとって都合の悪い真実だから否定されるのである。

H19.5.11

競争はいやだ

周知のように、相当数の同性愛者が、社会的な欲動の蠢きを著しく発展させ公益のために献身するという点できわ立っている。このことを理論的に説明しようとするなら、可能な愛の対象を他の男性に見る男は、男性の共同体に対し、男というものをさしあたり女性関係のライヴァルと見ることを余儀なくされる他の男とは異なった振舞い方をせざるをえないのだ、と述べてもいいだろう。(17-355)

 どんな人も同性愛と異性愛の両方に向かう傾向を本来持っているが、最終的に多くの人は異性愛を選択し、少数が同性愛を選択する。同性愛者を選択した人にとっては、それによってもたらされる有利さの総和が不利さの総和を上回っていたのであろう。少数派であるということはそれだけで多くのハンディキャップとなるだろうから、それらを上回る利点が必要になる。その有力な候補のひとつが、「同性との競争から自由になれること」であるとフロイトは分析した。逆に言えば異性愛者にとっては、異性関係の追及が同性との絶えざる競争による緊張をもたらしているということである。これはなかなか鋭い見方だなと思った。

H19.5.13

テーマ:書評 - ジャンル:本・雑誌

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