自我とエス
Das Ich und das Es (1923)
心的装置についての後期構造理論(第二局所論)が完成された、大変重要な論文である。本格的にフロイトを勉強しようという人なら必ず熟読するであろう。
序の部分では、本論文を「快原理の彼岸」に始まった思考の歩みを引き継ぐものとしている。しかしこちらの方が、ずっと論理的であり、高い完成度でまとまっている。というか「彼岸」の方はとんでもない論文だったから。
そういうわけで、まるっきり初心者では厳しいだろうが、ある程度フロイトの著作を読み進んだ後にチャレンジするにはお勧めの著作だ。一回読んでさっとわかるというわけにはいかないだろうが、何度も読むことで後期理論の真髄に触れることができる。
<Ⅰ>意識と無意識
今日ではフロイトの功績もあって、無意識的な心理過程が確かにあるということは、さほど強調しなくても理解されるようになっている。もっとも、それはなんとなく意識と無意識があるという程度のことかもしれない。彼は、心的なものの質として、意識的、前意識的、無意識的の三様を規定したのであった。
このうち、前意識的ということが意外に誤解されやすいところだ。これは、現在その時に意識されていないという意味で潜在的であるが、その気になれば意識することのできる心的過程のことをいう。
例えば、「昨日の夕食は何を食べましたか」と問われれば「とんかつを食べました」と、その食事の内容や有様を思い出すことができる。昨日の夕食にまつわる諸観念は、その時点ではじめて意識的になったということだ。問われる前には、それらの観念は潜在していたわけで、それらは前意識的だったということになる。
考えればわかることだが、ある瞬間に意識できる心的内容は限られているのに対して、前意識的な観念は膨大である。この意識と前意識の関係がどうなっているかというのは、けっこうむずかしい。
ワープロやエディタで長い文書を表示しているところを考えてみよう。ウィンドウに表示されているのは、文書全体のほんの一部である。これが意識的なものに相当する。そしてスクロールした時に見えてくるであろう他の部分は前意識的なものということになる。
こういう文書を上下にスクロールして全体をみわたすと、目に見えている部分を縦に延長したような文書全体が存在するかのように錯覚してしまいがちだが、実はそうではない。メモリ上に保存された情報が、スクロールされるごとにウィンドウ内の所定の位置に描画されているにすぎないのだ。
略形の意図はいかに
「自我とエス」については、これまで著作集の小此木啓吾氏訳とちくま学芸文庫の中村元で読んできたが、全集の道簱泰三氏の訳もなかなか読みやすい文章でよかった。
ただ、これは全集全体の方針なのか、「自我とエス」でだけのことなのか、フロイトが用いた意識、無意識についての略形表記を訳に反映していない。
すなわち、原文では次のような略形を用いている。
bewußt(意識的な)→ bw 名詞形→ Bw
vorbewußt(前意識的な)→ vbw 名詞形→ Vbw
unbewußt(無意識的な)→ ubw 名詞形→ Ubw
これまでの2つの邦訳では、「意識(Bw)」のような表記をしていた。ちなみに、標準版の英訳では、"Cs.","Pcs.","Ucs."という略形を用いている。
原文を見ると、略形とそうでない表記が混在していて、それらを区別する明瞭な意図があるのかどうかわからない。全集の訳では、意味ある区別はないと考えたのだろう。ここの部分については、それでいいような気もする。
しかし、「夢解釈」における初期の局所論では、"Vbw"や"Ubw"に体系としての意味合いがあり、略形で区別することは重要なのではないかと思う。新宮氏がどのような翻訳をするか、注目されるところだ。
<Ⅱ> 自我とエス
著作全体の題名と同じになっているが、第二章の題名である。ここの前半は特に難解だ。フロイトのこれまでの著作での議論をふまえないと、なんのことを述べているのかもよくわからないのではないか。
さかのぼっていくと、「快原理の彼岸(1920)」、「無意識(1915)」、「夢解釈(1900)」の第七章といったところに同様の事柄の論述があり、さらに「心理学草稿(1995)」や「失語論(1891)」での議論にまでさかのぼることもできる。
こういう難解な理屈は正直よくわからないし、はじめて読むような方は適当に読みとばしてもよいのではないかと思う。この章の後半でエスが登場してから以降は、また少し理解しやすくなるので。
意識は外側に
意識とは心の装置の表面であるというのが、かねてよりのわれわれの主張であり、われわれは、意識なるものを、機能としては空間的に外界にじかに接している系に属するものと考えてきた。ちなみに、空間的とは、たんに機能の面から言っているだけでなく、そこには解剖学的な意味も含まれている。(18-12)
意識が外界の知覚ということと密接している現象であるということは、フロイトが何度も述べていることである。しかも、それは単に比喩的な意味だけではなく、解剖学的な意味も含まれるというのだ。
つまり、神経系において意識の座と考えられる脳皮質は、脳の一番外側にあるではないかと。しかし、そのことが心理学というレベルの話とどう関係してくるのか。
フロイトは、もともと脳解剖学を研究していたくらいだから、こういう発想がでてくるのだろう。脳の形や場所のことなんてふつう心理学者は考えないでしょう。
確かに、脳のような重要な器官が身体の奥深くではなく、露出した場所にあるというのはおもしろい。おそらく、目、耳、鼻、口といった、重要な感覚器官と近い位置にあるということが大事なことなのだろう。脳の中で神経細胞が表層部にあることは、それぞれが相互に膨大なネットワークを築きつつ外部とも連絡をとるという機能から導かれた、必然的な形なのであろう。
言葉によって引き出せ
すでに別のところで仮説として打ち出しておいたところであるが、無意識的表象と前意識的表象(思考)の実際上の違いは、前者が、しかと識別されていないものを素材として生じるのに対して、後者(前意識的表象)の場合には、これがさらに語表象と結びつくという点にある。(18-14)
前意識的表象の根本的な性質は語表象との結びつきであるという、非常に重要な命題である。
それでは、言語を持たない動物には、前意識的表象は存在しないのか。そういう動物には、意識はないのか。といったような疑問も浮かんでくる。
おそらく、言語をもたない動物にも、その瞬間その瞬間の意識はあるのだろうが、人間のような前意識的表象というものは存在しないかもしれない。つまり、前意識的表象とは、いつでも自由に意識の上にひきだせる表象ということであり、この「いつでもひきだせる」というこのために語表象との結びつきということが大事になってくるのだろう。
例えばネズミにも記憶力があり学習をすることができる。ある部屋に行くとびりっと電気刺激が与えられるような実験をすれば、ネズミはその刺激のことを記憶して、その部屋には行かなくなる。しかしこのような記憶は、前意識的な表象とはいえないだろう。
人間の場合には、「以前にいやな出来事があった場所だから、そこには行きたくない」と考えて、ある場所をさけるとしたら、その考えは前意識的表象になっているということだ。
しかし、「なぜだかわからないが、そこには行きたくない」と思えたり、それさえも意識せずにその場所を避けているという場合がある。そのような行動は、当人も意識できない外傷的な記憶によって規定されているのかもしれない。そうであれば、その外傷的な記憶は無意識的な表象にとどまっているということになる。
外部から来たかのように
つまり、語表象は、内的な思考過程を知覚するための仲介者の役割を果たしているということである。とするなら、あらゆる知は外的知覚から発しているという命題も、これで証明されたも同然ということになろう。思考に過剰備給がほどこされると、思考内容は、現実のものとして――あたかも外部から来たかのように――知覚され、それゆえ真とみなされるのである。(18-17)
知覚-意識系が心的装置の外側にあるということと対になるのが、思考のような内部過程は、あたかも外部から来たかのように知覚されるという仮説である。
知覚-意識系はそもそも外部からの刺激を受け取るように作られており、それが本来の機能なのである。内部からの快不快を知覚したり、とりわけ思考過程を知覚することは後になってから、外からの刺激を知覚することを模範にして生じた機能である。
思考の場合には、表象が語表象と結びつくことによって、つまり聴覚的な想い出-痕跡と結びつくことによって、それが可能となった。意識的に考えるということは、あたかも内からの声を聞くような営みなのであろう。
知覚と感覚
知覚と感覚という語は、日常的な使用においては同じような意味に用いられがちである。
心理学の用語としては、もちろん区別する必要がある。もっとも、感覚や知覚のしくみが完全には解明されていないだけに、その定義も曖昧であったり、理論によって異なったりする。
一般的には、感覚は実際の刺激によってひきおこされるプロセスであり、知覚はそれを心なり脳が体験するプロセスであるとされる。感覚の障害といえば、例えば末梢神経の損傷によって痛みや触覚を感じなくなる状態。知覚障害の例としては、実体のないものが見える幻視などがある。つまり、外界から主体までの経路のうち、外に近いところのプロセスが感覚で、主体に近いところのプロセスが知覚である。おおざっぱには、そういうことでよいだろう。
さて、フロイト理論においても、知覚(Wahrnehmung)と感覚(Empfindung)という語はわりと厳密に区別されているのであるが、やや独特のところがある。特に知覚ということのとらえ方である。
フロイト理論では、意識と知覚は密接に結びついているということになっている。それらは、心的装置においては知覚-意識系において生じる過程である。
意識と知覚がどれほど密接に結びついているかといえば、同じことであるといってもよいくらいである。つまり、知覚するということは意識するということに等しい。フロイトはそこまでは言っていないのであるが、彼の理論をつきつめていくとどうもそういうことになる。
これは、フロイトが知覚ということを外界の認知のみならず、内界の認知にも広げて考えているためである。外であろうが内であろうが、知るということが知覚なのである。それは意識するということのほぼ全域をカバーしている。そして、意識に上らないことは知覚することにはならない。「無意識的知覚」ということはないのである。
これに対して、無意識的感覚というものはある。意識に上らない事柄を確かに感知して反応していたり、それが記憶されて後の反応に影響するということは充分あり得ることなのである。
エス登場
その洞察に敬意を払うためにも、ここで私としては、知覚系に発し、まずは前意識的であるものを自我と呼び、それに対して、この自我と地続きでありながら、無意識的な振舞いをするこれとは別の心的なものを、グロデックの用語を借りて、エスと呼ぶことにしたいと思う。(18-18)
いよいよエスの登場である。エスという概念を、フロイトはゲオルグ・グロデック(1866-1934)から借用している。グロデックはみずからフロイトの弟子と名乗り、フロイトもこれを認めて1917年から1923年にわたってかなり親密な文通があったようである。しかし、例によってというか、二人はエスの概念の食い違いをめぐって衝突してしまった。(グロデック著「エスの本」訳者山下公子氏の解説を参照)
よく指摘されるように、フロイトと弟子の関係は、急速な接近と親密な関係の後の衝突というお決まりのパターンになる。そうしながらも、フロイト理論は弟子の考えを取り入れて豊かに発展していくのだからすごい。エスの概念も、借り物とは思えないくらいにうまくはまっている。
二番目の図

フロイトは、心的装置の図を公式には三回描いている。一番目は「夢解釈」、二番目が今読んでいる「自我とエス」、そして三番目が「続・精神分析入門講義」である。最初のものは初期局所論のものなので、今回登場する図とは大きく異なる。三番目のものは、二番目の改訂版のようでよく似ている。
ここに示したのはもちろん、「自我とエス」に出てくる図である。今回は、独語版全集のものをとりこんでみた。「続・精神分析入門講義」の図と比べると、大きく違うところが二箇所ある。ひとつは「超自我」がここには描かれていないが、「続」の図では表示されていること。もうひとつは、「聴覚帽(Hörkappe, 図では"akust."と表示されている)」である。
この聴覚帽、後の図では消えてしまっているし、他のところでもあんまり出てこないようだが、いったい何なんなんだろう。
もうひとつ付け加えておくと、自我は、「聴覚帽」を被っており、しかも脳解剖学によって証明されているように、それは片一方の側だけに限られている。(18-19)
つまりこの図は脳を意識したデザインになっているようだ。たしかにそんな雰囲気はある。編注によると、「フロイトの念頭にあったのは、言語理解の際にある役割を果たしている高度聴覚中枢、つまりヴェルニケの脳内言語中枢のことなのかもしれない」とのことだ。
フロイトは精神分析以前の著作である「失語論(1891)」で、失語のメカニズムについて論じている。言語については、聴覚理解にかかわるヴェルニケ中枢と発語にかかわるブローカ中枢があるというモデルが現代においても通用している。フロイトは、この仮説を批判し、両者はもっと広範囲にわたって存在する言語領域の入力と出力の部位に過ぎないだろうと述べている。
であるから、聴覚帽が「高度聴覚中枢である」という表現にはフロイトも反対したに違いないが、これを音声言語の入り口と考えるとより近いのかもしれない。
つまり、この図があらわしているのは、音声言語が他の感覚要素とは違う経路を通って知覚系に到達するということであろう。われわれが言葉を聞く際、それは意識に上った時には、すでに単なる音ではなく、意味を伴った言語に加工されているのである。
勝ち馬に乗る
エスとの関係でいえば、自我は、馬の圧倒的な力を制御しなければならない騎手にでも譬えられるが、ただし、騎手ならば自力でもってこれをなそうとするのに対して、自我はよそから借りてきた力でもってこれをなそうとする点が異なっている。この比喩はもう一歩進ませることができる。つまり、騎手は、馬と離れたくなければ、往々にして、馬の行こうとするところへ馬を導いてゆくほかないが、それと同じで、自我もまた通常は、あたかも自分の意志であるかのようにしてエスの意志を行動に移しているということである。(18-20)
自我とエスの関係についての、騎手と馬の比喩。
フロイトは比喩の名人であり、このブログでもすでにいくつか紹介してきたが、その中でもこれは特にすばらしい。ベストテンに入ることは間違いないだろう。(いずれそういうベストテンをしてみたいものだ。)
難解な論文だが、こういうところは実にしっくりとわかる。そして、なにか人生を生きるうえでの教訓のようにも読むことができる。
われわれは、自分が暴れ馬に乗せられていることに気づかず、行ける所に行けると錯覚してしまいがちである。そして、馬の意向を無視して強引に目的地をめざそうし、ひどい目に会う。
自分の馬がなにをやりたいかということに注意を払い、ある程度それに身をゆだねるようにしながらうまく操っていくことができれば、人生の難局も案外うまく乗り切ることができるのかもしれない。あるいはうまく乗り切れなくても、それは馬が望んだことだからと、素直にあきらめることができるかもしれない。
境界としての身体
自我とはとりわけ、身体的自我なのであって、たんに表面に位置するものであるだけでなく、それ自体が表面の投射ともなっている。(18-21)
「自我とは身体的自我である」というフロイトの言明は、どうもわかったようでわからないところがある。以下のような理解でよいのか、あまり自信がない。
人間は身体を、とりわけ外界との境界であるその表面によって強く意識する。つまり自分の身体が、ある体積と形と方向を持って、三次元的に広がる空間のある部分を占めていることを実感する。その表面によって内と外が区切られることを知る。
このように形としての己をイメージすることによって、その中身である精神的なものも含め、他とはっきり区別され、ひとつのまとまりをなす自らを表象することができるようになるのである。
<Ⅲ> 自我と超自我(自我理想)
いよいよクライマックスにさしかかってくる。「自我とエス」という論文は心的装置の3つの審級について述べたものだが、なぜか題名に入っていない超自我についての叙述が、実は一番新しくて重要なところなのではないかと思う。
まずは、対象を断念するにあたって同一化という過程によって自我に変容がもたらされるという重要な指摘。
自我は、対象の特徴を身にまとうと、いわば、エスに対しても自らを愛の対象として押しつけ、エスの損失を埋め合わせようとして、こう言うのである。「どう、私を愛してもいいのよ、私、対象(あのひと)にそくりでしょう」と。(18-25)
ここのフレーズは以前から好きなところだったが、今回の翻訳で女性の口調になっているのでびっくりした。その前の段落に、「豊富に恋愛経験を積んできた女性の場合には、概して、その性格特徴のうちに対象備給のさまざまな残留物が容易に見出せるようである。」という文があり、それとの兼ね合いなのか。しかし、引用部分は男女に関係なく一般的な過程を表現しているのだと思う。本論文の翻訳は全体にくだけた日本語だが、「対象」に「あのひと」とルビをふったりするあたりは少々やりすぎなのではとも感じた。
ともかく、エスに愛されようと自我が同一化によってさまざまな性格を身につけていくというのは、実におもしろい洞察だ。
多重人格
自我はさまざまな対象との同一化によってその性格を形作っていく。それはさながら、いろいろな端切れで作るパッチワークのようなものであろう。どのような過程によって、それが自分らしい作品に仕上がるのかという点が興味深い。
ことがいつもうまくいくとは限らないわけで、フロイトは矛盾しあう同一化の折り合いがつかずに病的な結末になるケースのことを指摘している。
それぞれの同一化が、抵抗によってはばまれて相互に受けつけなくなると、自我は分裂状態に陥りかねないし、もしかしたら、いわゆる多重人格という症例の秘密も、それぞれの同一化が、入れ代わり立ち代わり意識を占領してしまうところにあるのかもしれない。(18-26)
多重人格というと、数年前から随分ブームのようになって、小説やらドラマやらでしきりに取り上げられている。フロイト自身が本格的な多重人格のケースを治療したという話は聞いたことがないが、興味をもっていたことは、こういった言及でわかる。
昇華への道筋
同一化とは、対象に向けられていたリビード(対象リビード)が、自我にもう一度戻ってきて(ナルシス的リビード)、二次ナルシシズムが形成される過程である。これが、自我がその性格を豊かにしていくのにとても大事なことなのだ。
さて、ここでフロイトは本筋とは少し離れるが、重要なことを述べている。上記のリビード転化には、「性目標の断念ないしは脱性化、つまり一種の昇華(18-25)」がともなうというのだ。しかも、このような過程が、昇華がなされる際の一般的な道筋ではないかという仮説をたてている。
昇華というのは、性欲を別の行動への欲求に転化させることである。スポーツとか、芸術活動とか、あるいは仕事に没頭するといったことが昇華の例といえよう。
この昇華がおこるためには、対象リビードがナルシス的リビードに転化するという過程が必ずともなうというのだ。たしかに、そうかもしれない。昇華された活動の追求ということは、対象をひたすら求めるというよりは、「こういうことをしている俺ってすごい」みたいなナルシシズムの要素を含んでいる。
超自我登場
いよいよ超自我の登場だ。どうやって登場するかというと、同一化によってである。じゃあ、自我とどう違うんだ、ということになる。ここのところは、ちょっと、というかだいぶややこしい。
超自我の核は、最早期における父親あるいは両親との同一化によってつくられる。この同一化は、対象備給を断念する結果ではなく、直接的なものであるという。これを一次同一化という。
さらに、エディプスコンプレクスが解消されるにあたって、超自我は父への同一化によって強化される。ここでちょっと不思議なのは、男の子の場合であれば断念される対象は母親なのに、超自我は父に同一化されるということだ。
超自我はむずかしい。同じ同一化でも、自我の同一化はしっくりと理解できるのだが、超自我の場合にはどうもぴんときにくいのだ。
表エディプスコンプレクスと裏エディプスコンプレクス
男の子のエディプスコンプレクスが解消されるにあたって、母親への性的欲望は断念されねばならない。その際に、父親への同一化によって超自我が強化される。ここのところ、断念した対象と同一化して自我の性格が変容する場合とは異なっている。
実はエディプスコンプレクスには、表と裏の二種類がある(注)。その前提として、子供は男の子でも女の子でも、両方の性の特徴をもっているということがある。
この両性性ということは、フロイトが性別について問題にする際に必ずといってよいほど持ち出すキーワードである。
男の子であれば、表エディプスコンプレクスは、通常どおりの、母を愛して父を邪魔者と思うというもの。そして、裏エディプスコンプレクスは、女性のような態度で父を愛して母に嫉妬すること。表と裏の両方が同時に進行していくのが、完全なエディプスコンプレクスである。
そして、両者が解消される時、父-同一化と母-同一化が出現する。それらがひとつに合体して、自我の中に超自我を作り出すというのだ。
注)以前は陽性と陰性などと訳されていた。原語は"positive"と"negative"。
内なる他者
超自我における同一化が自我における同一化と異なる最大の点は、それが禁止の命令を含んでいるということである。
超自我の自我に対する関係は、そのように(父のように)あるべし、という促しに尽きるものではなく、そのように(父のように)あってはならぬ、すなわち、父のすることを何でもしてよいわけではない、という禁止も含んでおり、多くのことを、父親だけの特権として留保しているわけである。(18-31)
同一化は「なりきること」と考えると理解しやすい。自我の同一化については特にそうである。しかし、超自我における同一化はそれだけではない。なりきりつつ、禁止もするという。そういう意味で、超自我は内にある他者のような存在である。しかし、まったくの他者でもなく、というのは内にあるわけだらから当然かもしれないが、その禁止に従うことは、自我にとってもある種のナルシス的な満足感をもたらすのだ。
どちらの味方か
自我とエスと超自我、この三者の関係はどうもわかりにくい。超自我というのは、自我にとっての理想であり、自我に対して「こうすべし」とか「してはならぬ」と上から命令してくるものである。一方でエスは、自我に対して「あれを欲する」と下から欲望を突き上げてくる。だから単純に考えると、三者は上から超自我、自我、エスの順に並んでおり、超自我とエスがもっとも遠い関係にありそうに思える。
しかし、フロイトの記述によれば必ずしもそうではないようなのだ。むしろ、超自我とエスとは意外に近いところにあるようである。
自我は、自我理想を打ち立てることによって、エディプスコンプレクスを制圧すると同時に、自らをエスに従わせることになったわけである。自我が本質的に外界ないし現実の代理形成だとすれば、それに対して、超自我は、内界ないしエスの代弁者として、自我に対峙している。(18-33)
譬えていえばこんなことになる。ウルトラマンでもかなわない強大な怪獣が現れた。ウルトラの父が登場し、その力を借りてようやく怪獣を制圧した。しかし、そのためにウルトラマンは怪獣に従属することになってしまった。実は、ウルトラの父は怪獣の味方だったのだ。
そんなばかな話があるのだろうか。よくわからないが、しかしなんとなくありそうな気もする。
うまい話には意外な落とし穴があることが多い。誰かの助けを借りれば、必ず自らの独立性は減じてしまう。助けてくれた人が実は敵と近しい存在だったということも、ありがちなことだ。近しい仲だから制圧できたのかもしれないし、最初から共謀していたのかもしれない。
超自我の由来
フロイトが遺伝ということを重視していたことは、意外に知られていない。彼が幼少期の体験を重視したということは、「氏か育ちか」という問いに対して「育ち」を重視したとみなされがちである。
しかし、彼がもし環境要因そのものを重視したのであれば、個人のもつコンプレクスはそれぞれが体験した多様な幼少期を反映しているはずであるから、エディプスコンプレクスのような普遍的なパターンはでてこなかったであろう。彼が幼少期の体験を重視しつつ、その背後にある「太古の遺産」といったものを捉えていたからこそ、エディプスコンプレクスの理論は定式化された。
心的装置の理論においても、その系統発生的由来というものが繰り返し問われている。このような進化的な側面からの問題意識をフロイトはつねにもっていた。
すなわち、その昔、父コンプレクスをもとにして宗教と倫理を獲得することになったのは、原始人の自我にあたるのかエスにあたるのかどちらなのか。(18-35)
フロイト自身難問だとして、迷いつつ暫定的な答えをしている。自然淘汰の理論と「集団心理学と自我分析(1922)」での議論を取り入れて、私なりに解釈すると次のようなことになろう。
エスは遺伝によって個人にもたらされたものである。自我は、その個人が直面する現実に対応するにためにエスから派生したものである。自我の体験は直接には遺伝しないが、おなじような体験が多数の個体で繰り返されることによってエスを変えていくことができる。逆に言えば、エスの進化は自我のふるまいを通して淘汰されことによってのみおこる。
エスはその内に、そこから自我を派生させるための雛形を含んでいる。首領(原父)を中心に群族で暮らしていた原始人類においては、二種類の自我がありえた。首領の自我とその他大勢の自我と。それらの自我は、同じようなエスから派生してくるのであり、すなわちエスは大きく二種類の自我の雛形を含んでいた。「原父の殺害」という歴史的事件(といってもただ一回の出来事ではない)から以後、現実の首領は出現しなくなった。首領の自我の雛形は現実の人物として体現されることはなくなり、かわりにそれぞれの個人の中でひとつの超自我となった。
<Ⅳ> 二種類の欲動
「快原理の彼岸」で導入された、生の欲動と死の欲動の二元論が提示される。それぞれの欲動は純粋な形でみられることはなく、「生命基質のどの部分にもすべて、この二種類の欲動が二つながらに働いている(22-38)」のだという。
さらに、欲動の混合と分離の話。それにからめて、両価性(アンビヴァレンツ)という、これもフロイトが好んでとりあげてきたた問題にいきつく。
神経症を引き起こしやすい素質の人に非常にしばしば強く見られるあのいつもの両価性(アンビヴァレンツ)なるものも分離の結果として解釈していいのではないか、という問いもここに生じてくるが、しかし、この両価性はきわめて根源的なものであるため、これはむしろ、欲動混合が完全になされなかったために生じたものとみなされねばならないだろう。(18-39)
両価性もまた、人間の感情の根源的で不思議な性質のひとつである。簡単にいえば、愛のあるところに憎しみがあり、憎しみのあるところに愛があるということだ。対極にあるかのようにみえる二つの感情が実は同じ根っこから出てきている。そのことは、日常的なさなざなま場面でも実感されることであろう。
愛と憎しみは、生の欲動と死の欲動と一対一に対応するわけではない。しかし、欲動の混合と分離ということを考える上で重要なヒントになりそうだ。
遷移可能なエネルギー
生の欲動と死の欲動の理論には未確定で曖昧なところがあることをフロイトは認めているが、それでもともかく二元論であるということは固持している。
ところが、欲動理論としては二元論であるものが、エネルギー論になると一元論になってしまうという奇妙な点がある。
欲動は有機体におけるある種の衝迫であり、リビードは量である。力学に例えると、欲動が力でリビードはエネルギーということになろう。リビードは性欲動に対応する量なのであるが、では死の欲動に対応する量というものがあるのか。
フロイトはそういったものを明示していない。
さらに、本論文では「遷移可能なエネルギー」といったものを仮定し、それが「エロースの蠢きであれ破壊欲動の蠢きであれ、質的に異なったその双方どちらに付加されても、それぞれがもつ備給の総量を増大させることができる(18-42)」としている。
遷移可能なエネルギーは、「脱性化されたリビード」あるいは「昇華されたリビード」とも言い換えられる。この「脱性化」という過程は、対象リビードの自我リビードへの転換において、すなわち自我の対象への同一化による二次ナルシシズムの成立においてなされるという。
<Ⅴ> 自我の依存性
超自我と自我の関係から、精神分析の臨床における負の治療反応(注)の話題になる。通常症状の改善をもたらすはずの治療における進展が、却って症状悪化を招いてしまうような反応のことである。
負の治療反応は治療に対する抵抗の一種であり、その原因は患者に内在する無意識的罪責感にあるという。
超自我に起源をもつ無意識的罪責感は、多くの神経症に認められる。そればかりでなく、超自我の自我に対する振る舞い方が、神経症のタイプを決定づけているともいえる。
強迫神経症においては、自我は超自我から強く罪を責められるが、自我はそのことにある種の不満を感じ、抵抗しようとする。
メランコリーの場合には、超自我に強く責められた自我は、自分の罪をすっかり認めてしまって罰に服してしまう。
ヒステリーでは、自我は超自我の批判を招きそうな素材を抑圧によって遠ざけてしまう。つまり罪責感が生じるもう一歩手前のところで防衛がおこっている。
注:negative therapeutische Reaktion, 以前は「陰性治療反応」とも訳された。
非道徳性と道徳性
自我、エス、超自我の中では、エスは完全に無意識的であるが、超自我も大部分無意識的である。したがって、無意識の中には、衝動的なものと道徳的なものが同居していることになる。「ノーマルな人間は自分が思っているよりもずっと非道徳的であるばかりでなく、自分が自覚している以上にずっと道徳的でもある(18-53)」ということだ。
先の記事で述べた、「超自我とエスは意外に近いところにある」ということも、このあたりの事情と関係する。さらには、超自我の内容に備給エネルギーを提供しているのは、エスの内部の源泉なのだというのだから。
内容的には正反対のものが同居し、同じ源泉からエネルギーの供給を受けているというのも、無意識においては別に珍しくもないことなのかもしれない。それに比べて自我は、現実に対峙しているという性質から、中庸で妥当で辻褄が合ったものでなくてはならないのだろう。
罪責感から犯す罪
多くの犯罪者、とりわけ若年の犯罪者の場合には、強い罪責感の存在が立証されており、しかもその罪責感は、犯行がなされる前にすでに存在していたものであって、犯行の結果ではなくて、その動機となっている。(18-53)
普通に考えると、犯罪を犯す人というのは罪の意識が通常よりも少ないのではないかと思われる。しかし、無意識までを考えると、強い罪責感ゆえに犯罪にいたる事例があるというのだ。
犯罪心理学のことはよく知らないので、実際のところがどうかはよくわからない。ただ、卑近なところからの連想では、昔の大映系のドラマなんかで、非行少女が「叱って欲しかったからこんなことをしたのよ!」と叫ぶといった場面があったような。
この場合の心理としては、気を引くような行動によって対象のかかわりを求めるといった意図もあるのだろう。しかし、行動に先立つ罪責感というものも大きな要因になっていそうだ。
ただ、実際にそんなことを言う少女がいるかどうか。いたとしたら、自分のことを相当深く洞察している子ということになるだろうな。
犯罪の結果として罪責感が生じるという通常の因果律は、無意識の世界では必ずしも成り立たないのだろう。逆に、強い罪責感に見合うような実績が後から作られる。そういう行動を自我が迫られるということがありえるのだと。まあ、なんとなくわかる気もするな。
自殺に対する免疫
強迫神経症とメランコリーの相違の話。
強迫神経症では、メランコリーと同様に、自我が超自我に激しく責めたてられる。しかし、そのために自殺におよんでしまう危険は、メランコリーよりも少ないのだという。
その理由のところはわかりにくいが、ひとつには「対象がそれとしてきちんと保持されている(18-55)」からであるという。
対象の力は偉大だ。もっとも、強迫神経症においては対象がやさしく救いの手をさしのべてくれるというよりは、対象に攻撃性が向かうことによって、超自我から自我に向かう攻撃性がいくぶんそらされるということなのかもしれない。
また、先に述べたように、強迫神経症者の自我は責めたてる超自我に対して不満を感じ、完全には従属しないというところとも関係するのであろう。
強迫観念や強迫行為といった防衛手段も、自我が最低限自らの存在だけは守りきろうとして導入されると考えると合点がいく。
政治に譬えると
本論文では、自我の主体性がいかにみせかけのものであるかということが繰り返し述べられている。エスとの関係については、先に紹介したように暴れ馬を繰る御者の譬えがあったが、同様のことを今度は立憲君主にもなぞらえている。つまり、立憲君主は名目上の主権をにぎっているが、実際上は議会が決定したことをそのまま認めることしかできないと。
さらに少し先では、自我がエスと超自我と現実との間に挟まれて二枚舌三枚舌を使うところを、日和見主義者の政治家に似ているとしている。
なかなかおもしろい譬えである。と同時に、フロイトの政治への見方をもあらわしているようでそれも興味深い。
三種の不安
自我は、現実、エス、超自我の三者に対峙している。自我にとって、これらの三者はいずれも脅威になりえるのであって、その時自我は、「こりゃ大変だ」とばかりに逃げ出したいような気持ちになる。これが不安の正体である。
どこから来る脅威かということによって、不安には三種類ある。現実からくる対象不安(現実不安)、エスからくる神経症的なリビード不安、そして超自我からくる去勢不安である。
死の不安は、去勢不安のバリエーションであって、自我が超自我に憎まれ責められた結果である。
不安の問題については、後の論文「制止、症状、不安(1926)」で大きく修正されることになる。しかし、よく見ると「自我とエス」のこの部分にも、すでに「出産外傷」を暗示するようなことが一言書かれているのであった。
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