十七世紀のある悪魔神経症
十七世紀のある悪魔神経症(吉田耕太郎 訳 2007)
Eine Teufelsneurose im siebzehnten Jahrhundert (1922)
フロイト全集第18巻の中で、実は一番楽しみにしていたのが本論文である。
悪魔というテーマがおもしろい。現代でも、子供向けのテレビ番組やファンタジー映画には必ずといっていいほど悪魔的な存在が登場する。悪魔というのは怖いけれど魅力的なのだ。子供のファンタジーに欠かせない要素なのかもしれない。
もともとは宗教的な背景の中で作られたものなのだろう。新約聖書にも悪魔の話はでてくる。イエスは洗礼を受けた後、自分から悪魔の誘惑を受けるために荒れ野に行き40日の断食をする。すると、悪魔が現れて、石をパンにかえたらどうだとか、自分を拝むならすべての国々を与えようなどと言って誘惑をするのだ。(マタイによる福音書第四章)
ここでは、内面からの誘惑を悪魔として比喩的にあらわしているのかもしれない。あるいは、断食という極限状態で幻覚があらわれたということかも。だとすれば、やはり内的な欲望の投射ということになるか。
一神教であるキリスト教において、悪魔という存在の位置づけはどうなっているのか、ちょっとよくわからない。
歴史的文書
本書でフロイトが分析の題材にしているのは、オーストリア=ハンガリー帝国記録文書館の館長ルードルフ・パイヤー=トゥルン博士が発見した巡礼地マリアツェルに由来する写本である。原本はおそらく1714年に書かれたもので、1677年におこったクリストフ・ハイツマンという画家にまつわる出来事について描写している。
ハイツマンという男は、9年前に悪魔と結んだ契約を解消するためにマリアツェルの聖母の恩寵にすがった。その願いが奇跡によってかなえられたいきさつが、目撃した僧侶の証言とハイツマン本人の日記によって報告されている。
宗教的な奇跡の出来事として書かれた文書を、フロイトはひとつの病歴として分析するのである。歴史的文書に記された魔的な話や憑依現象を精神疾患として捉えなおすということは、フロイトの師であったシャルコーが興味をもって取り組んでいたことでもあった。
現在この写本は、オーストリア国立図書館に保管されているという。誰か日本語に訳して出版してくれないかなあ。
神経症か統合失調症か
フロイトが分析対象とした歴史文書については、イーダ・マカルピン博士とR・A・ハンター博士の共著で「1677年の統合失調症(Schizophrenia 1677)」という本が1956年に出版されている。こちらには、歴史文書が9枚の絵のカラー複写を含めて掲載されているらしい。また、フロイトの論文に対してはずいぶん批判的に書かれてるとのことだ。
この本自体ももうだいぶ古いので新刊書として手に入れることはできないようだ。残念。
フロイトに対してどのような点で批判的であったのか詳細はわからないが、題名からしてハイツマンを統合失調症とみなしていたとうかがわれ、そのあたりの診断的なことが問題になっているのだろう。
フロイトのみたては、メランコリーの後に生じた神経症的な空想ということのようだ。
このような歴史的事例に現代的な診断を当てはめるにあたっては、時代背景ということを充分に考慮しないといけない。たしかに、ハイツマンの悪魔と契約を結んだといった発言は、現代的な背景にもってくれば妄想ということになろう。しかし、その当時は悪魔ということが多くの人に真剣に信じられており、それに僧侶たちもつきあい、マリアによる奇跡に感動してそれを文書に残しているのである。つまり彼の言動は、当時の常識的世界観からみたら荒唐無稽とも言えないのではないか。
追記(H20.1.13)
”Schizophrenia 1677”は、米国のamazon.comのマーケットプレイスで手に入ることがわかった。現在の出品は200.15ドルとかなり高価だ。(2012年2月24日現在の価格は$140とやや下がっている。)
Schizophrenia 1677: by Ida Wertheimer Macalpine (Author)
書評は下記で見ることができる。
Schizophrenia 1677
代替者としての悪魔
例によってここからはネタバレですので、「十七世紀のある悪魔神経症」を存分に楽しみたい方は読まない方がよいでしょう。
ハイツマンはなぜ、悪魔と契約を結んだのか。魔術を、富を、享楽を得るためだったのか。否。悪魔から提示されたそれらの誘惑を、彼は退けている。
では、ハイツマンは悪魔に何を求めたのか。フロイトの分析によると、彼は悪魔に父の代替者となることを求めたのであった。彼は当時、父を失ってうつ状態に陥り、仕事もできない状態にあった。そして、ついに彼は、九年間にわたって悪魔の息子になるという契約を結んでしまったのであった。
しかし、それにしても何故に悪魔が。
父の代替者といえば、神もまた父の代替者である。子供にとって、父は神のようでもあり、悪魔のようでもある。神と悪魔は、そのような両価的感情の両極を表している。
父を失ってうなだれる息子を慰めてくれる存在としては、むしろ神のほうが適切ではないのかという疑問もおこる。もちろん、父を失って神への信仰を深めるといった場合もあるだろう。ハイツマンのケースでは、もしかしたら実際に父が悪魔っぽい人だったとか、彼自身が悪魔嗜好の人だったとか、個人的な要因から選ばれたということなのかもしれない。
しかしそれだけでなく、こういう場合には悪魔の方が一般的にもしっくりする気がする。自分がそういう立場に立ったら、やはり悪魔にすがってしまいそうな。なぜだろう。遠い存在に思える神より、悪魔の方が親身になってくれそうな気がするんだな。
マリア信仰
父の代替者たる悪魔と契約をして悩んだハイツマンであったが、その解消を求めてすがったのが聖母マリアであったというのが興味深い。マリアはもちろん母の代替者である。父との関係に苦しみ、母に助けを求めるという図式はわかりやすい。
キリスト教の特にカトリックにおけるマリア信仰というのもおもしろい。なにしろ新約聖書には、イエスの母マリアについてはほんの少ししか記述がなく、マリアを信仰の対象にするべしとも書いていない。それなのに、多くの教会にはイエスを胸に抱くマリア像といったものがある。そもそも偶像崇拝だってキリスト教では禁じられているはずなのだ。
カトリックにおけるマリア信仰というものは、明らかに本来のキリスト教の精神からははずれているのだ。にもかかわらず、これだけ広くいきわたっているのは、やはり民衆に人気があるからだろう。父と息子の関係だけではどうしても物足りず、母性的なものを求めたくなるのは人間の本性なのであろう。
女性的な態度
悪魔との関係の解消のために、聖母マリアに救いを求めたハイツマンであった。そもそも、彼と悪魔との関係自体が女性的なものを含んでいたという。
悪魔との契約期間の九年という数は、九ヶ月という妊娠の月数を暗示する。画家によって描かれた悪魔に四つの乳房があるのは、本人自身の女性性を投射するものであった。といった解釈である。
ここには、シュレーバー症例以降フロイトがたびたび強調した「父に対して女性的態度をとる息子」というパターンがある。
神経症を「男性的抗議」という観点からとらえようとしたアードラーへの批判が述べられる。去勢への不安を契機に生じる男性的抗議は、ものごとの半面をとらえているに過ぎない。「去勢への快」すなわち女性的態度を望む傾向が、もうひとつの半面にはある。
自作自演
ハイツマンが悪魔から取り戻したという二つの契約書。これらはマリアツェルの文書庫に保管されており、その文書には共に1669年という年号が記されていたという。
ここの部分はハイツマンの訴えとはつじつまが合わない。フロイトは追及して、結局のところこの契約書がハイツマン自身によって後から作られたものであり、マリアによる救済が二度にわたったために思わずなされた書き損じから生じた矛盾であると分析している。
今だったら、「自作自演だろ」との声がかかりそうだ。まさしくそうなのだろうが、仮病や自作自演との違いは本人が意識せずにやっていることだ。
本症例はいわば無意識的になされた自作自演ともいえるが、ではその目的は何なのか。
二度目の症状再燃の意図というのはかなり明白で、一度目のマリアツェル訪問でしてもらったように、僧侶たちにやさしく対応してもらうことであったろう。そのために、「実は契約書はもう一つあった」という後からの捏造が行われ、それによって全体の辻褄が合いにくくなってしまったのであろう。
生活の困窮
ハイツマンの神経症の原因は、結局のところ生活の困窮だった。生活の困窮は、かつて自分をやしなっていた父への思慕をかきたて、悪魔神経症のきっかけを作った。
二度目の神経症では、世俗的な快楽の追求と、修道士として生計を維持する道との葛藤が演じられ、最終的には後者が選ばれた。
生活の困窮といえば、フロイトも分析医として開業してからも生活はなかなか安定しなかったようで、お金にまつわるようなエピソードをあちこちで披露している。「生活の困窮が父への思慕をかきたてる」というのは、フロイト自身にもあてはまることだったのかもしれない。
Eine Teufelsneurose im siebzehnten Jahrhundert (1922)
フロイト全集第18巻の中で、実は一番楽しみにしていたのが本論文である。
悪魔というテーマがおもしろい。現代でも、子供向けのテレビ番組やファンタジー映画には必ずといっていいほど悪魔的な存在が登場する。悪魔というのは怖いけれど魅力的なのだ。子供のファンタジーに欠かせない要素なのかもしれない。
もともとは宗教的な背景の中で作られたものなのだろう。新約聖書にも悪魔の話はでてくる。イエスは洗礼を受けた後、自分から悪魔の誘惑を受けるために荒れ野に行き40日の断食をする。すると、悪魔が現れて、石をパンにかえたらどうだとか、自分を拝むならすべての国々を与えようなどと言って誘惑をするのだ。(マタイによる福音書第四章)
ここでは、内面からの誘惑を悪魔として比喩的にあらわしているのかもしれない。あるいは、断食という極限状態で幻覚があらわれたということかも。だとすれば、やはり内的な欲望の投射ということになるか。
一神教であるキリスト教において、悪魔という存在の位置づけはどうなっているのか、ちょっとよくわからない。
歴史的文書
本書でフロイトが分析の題材にしているのは、オーストリア=ハンガリー帝国記録文書館の館長ルードルフ・パイヤー=トゥルン博士が発見した巡礼地マリアツェルに由来する写本である。原本はおそらく1714年に書かれたもので、1677年におこったクリストフ・ハイツマンという画家にまつわる出来事について描写している。
ハイツマンという男は、9年前に悪魔と結んだ契約を解消するためにマリアツェルの聖母の恩寵にすがった。その願いが奇跡によってかなえられたいきさつが、目撃した僧侶の証言とハイツマン本人の日記によって報告されている。
宗教的な奇跡の出来事として書かれた文書を、フロイトはひとつの病歴として分析するのである。歴史的文書に記された魔的な話や憑依現象を精神疾患として捉えなおすということは、フロイトの師であったシャルコーが興味をもって取り組んでいたことでもあった。
現在この写本は、オーストリア国立図書館に保管されているという。誰か日本語に訳して出版してくれないかなあ。
神経症か統合失調症か
フロイトが分析対象とした歴史文書については、イーダ・マカルピン博士とR・A・ハンター博士の共著で「1677年の統合失調症(Schizophrenia 1677)」という本が1956年に出版されている。こちらには、歴史文書が9枚の絵のカラー複写を含めて掲載されているらしい。また、フロイトの論文に対してはずいぶん批判的に書かれてるとのことだ。
この本自体ももうだいぶ古いので新刊書として手に入れることはできないようだ。残念。
フロイトに対してどのような点で批判的であったのか詳細はわからないが、題名からしてハイツマンを統合失調症とみなしていたとうかがわれ、そのあたりの診断的なことが問題になっているのだろう。
フロイトのみたては、メランコリーの後に生じた神経症的な空想ということのようだ。
このような歴史的事例に現代的な診断を当てはめるにあたっては、時代背景ということを充分に考慮しないといけない。たしかに、ハイツマンの悪魔と契約を結んだといった発言は、現代的な背景にもってくれば妄想ということになろう。しかし、その当時は悪魔ということが多くの人に真剣に信じられており、それに僧侶たちもつきあい、マリアによる奇跡に感動してそれを文書に残しているのである。つまり彼の言動は、当時の常識的世界観からみたら荒唐無稽とも言えないのではないか。
追記(H20.1.13)
”Schizophrenia 1677”は、米国のamazon.comのマーケットプレイスで手に入ることがわかった。現在の出品は200.15ドルとかなり高価だ。(2012年2月24日現在の価格は$140とやや下がっている。)
Schizophrenia 1677: by Ida Wertheimer Macalpine (Author)
書評は下記で見ることができる。
Schizophrenia 1677
代替者としての悪魔
例によってここからはネタバレですので、「十七世紀のある悪魔神経症」を存分に楽しみたい方は読まない方がよいでしょう。
ハイツマンはなぜ、悪魔と契約を結んだのか。魔術を、富を、享楽を得るためだったのか。否。悪魔から提示されたそれらの誘惑を、彼は退けている。
では、ハイツマンは悪魔に何を求めたのか。フロイトの分析によると、彼は悪魔に父の代替者となることを求めたのであった。彼は当時、父を失ってうつ状態に陥り、仕事もできない状態にあった。そして、ついに彼は、九年間にわたって悪魔の息子になるという契約を結んでしまったのであった。
しかし、それにしても何故に悪魔が。
父の代替者といえば、神もまた父の代替者である。子供にとって、父は神のようでもあり、悪魔のようでもある。神と悪魔は、そのような両価的感情の両極を表している。
父を失ってうなだれる息子を慰めてくれる存在としては、むしろ神のほうが適切ではないのかという疑問もおこる。もちろん、父を失って神への信仰を深めるといった場合もあるだろう。ハイツマンのケースでは、もしかしたら実際に父が悪魔っぽい人だったとか、彼自身が悪魔嗜好の人だったとか、個人的な要因から選ばれたということなのかもしれない。
しかしそれだけでなく、こういう場合には悪魔の方が一般的にもしっくりする気がする。自分がそういう立場に立ったら、やはり悪魔にすがってしまいそうな。なぜだろう。遠い存在に思える神より、悪魔の方が親身になってくれそうな気がするんだな。
マリア信仰
父の代替者たる悪魔と契約をして悩んだハイツマンであったが、その解消を求めてすがったのが聖母マリアであったというのが興味深い。マリアはもちろん母の代替者である。父との関係に苦しみ、母に助けを求めるという図式はわかりやすい。
キリスト教の特にカトリックにおけるマリア信仰というのもおもしろい。なにしろ新約聖書には、イエスの母マリアについてはほんの少ししか記述がなく、マリアを信仰の対象にするべしとも書いていない。それなのに、多くの教会にはイエスを胸に抱くマリア像といったものがある。そもそも偶像崇拝だってキリスト教では禁じられているはずなのだ。
カトリックにおけるマリア信仰というものは、明らかに本来のキリスト教の精神からははずれているのだ。にもかかわらず、これだけ広くいきわたっているのは、やはり民衆に人気があるからだろう。父と息子の関係だけではどうしても物足りず、母性的なものを求めたくなるのは人間の本性なのであろう。
女性的な態度
悪魔との関係の解消のために、聖母マリアに救いを求めたハイツマンであった。そもそも、彼と悪魔との関係自体が女性的なものを含んでいたという。
悪魔との契約期間の九年という数は、九ヶ月という妊娠の月数を暗示する。画家によって描かれた悪魔に四つの乳房があるのは、本人自身の女性性を投射するものであった。といった解釈である。
ここには、シュレーバー症例以降フロイトがたびたび強調した「父に対して女性的態度をとる息子」というパターンがある。
神経症を「男性的抗議」という観点からとらえようとしたアードラーへの批判が述べられる。去勢への不安を契機に生じる男性的抗議は、ものごとの半面をとらえているに過ぎない。「去勢への快」すなわち女性的態度を望む傾向が、もうひとつの半面にはある。
自作自演
ハイツマンが悪魔から取り戻したという二つの契約書。これらはマリアツェルの文書庫に保管されており、その文書には共に1669年という年号が記されていたという。
ここの部分はハイツマンの訴えとはつじつまが合わない。フロイトは追及して、結局のところこの契約書がハイツマン自身によって後から作られたものであり、マリアによる救済が二度にわたったために思わずなされた書き損じから生じた矛盾であると分析している。
しかしこれでは、神経症ではなく詐欺の話ではないか。画家は仮病を使った文書偽造者であり、病人ではなかったのではないか。そのとおり。神経症と仮病の境界線が流動的なことは周知の通りである。(18-224)
今だったら、「自作自演だろ」との声がかかりそうだ。まさしくそうなのだろうが、仮病や自作自演との違いは本人が意識せずにやっていることだ。
本症例はいわば無意識的になされた自作自演ともいえるが、ではその目的は何なのか。
二度目の症状再燃の意図というのはかなり明白で、一度目のマリアツェル訪問でしてもらったように、僧侶たちにやさしく対応してもらうことであったろう。そのために、「実は契約書はもう一つあった」という後からの捏造が行われ、それによって全体の辻褄が合いにくくなってしまったのであろう。
生活の困窮
ハイツマンの神経症の原因は、結局のところ生活の困窮だった。生活の困窮は、かつて自分をやしなっていた父への思慕をかきたて、悪魔神経症のきっかけを作った。
二度目の神経症では、世俗的な快楽の追求と、修道士として生計を維持する道との葛藤が演じられ、最終的には後者が選ばれた。
生活の困窮といえば、フロイトも分析医として開業してからも生活はなかなか安定しなかったようで、お金にまつわるようなエピソードをあちこちで披露している。「生活の困窮が父への思慕をかきたてる」というのは、フロイト自身にもあてはまることだったのかもしれない。
2007.11.22
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