マゾヒズムの経済論的問題
マゾヒズムの経済論的問題(本間直樹 訳 2007)
Das ökonomische Problem des Masochismus (1924)
小粒だが重要な論文。位置づけとしては、「快原理の彼岸」で導入した生の欲動と死の欲動の理論を、「自我とエス」の心的装置モデルもふまえて補足するもの。抽象的題材なだけに難解である。
経済論というのは、フロイトのメタサイコロジイで重要な視点である。心的装置の振舞いはさまざまな要因に影響されるが、最終的な決定は量的要因によってなされるという。つまり、諸要因はそれぞれ量に還元され、その量の足し算引き算によって、病気になるかならないかとか、どのような疾患が選択されるかとか、そういったことが決まる。
いわば損得勘定なわけだが、そのような視点からマゾヒズムの問題を考えてみようというのが本論文の目的。採算の面から考えて、マゾヒズムは合うのかどうか。
普通に考えると、サディズムはそれに見合った利益を個人にもたらしてくれる。他者を攻撃し排除しようとすることは、利己的な自己保存の目的にそっている。だから、個体がサディズム的傾向を本来的にもっていることは、容易に理解ができる。
であるから、マゾヒズムは人間が根源的にもつサディズムを、自己に向けかえることから二次的に生じるものと考えると理解しやすい。フロイトも最初はこのように考えていた。
本論文で提案されているのは、以上のような常識的な見方に対して、一次的なマゾヒズムが存在するのではないかという新しい仮定である。
自虐的な動物
人間は根源的にマゾヒスティックである、というのは一つの逆説だが、なかなか心にしっくるくるものがある。それは、もしかすると私自身がマゾヒストだからかもしれないが、周囲の人や世の中の動きを見ていても、人間は本来自虐的であるととらえると納得できることが多い。
フロイトも長年の臨床経験を経て、このような結論に達した。そのような印象を与えた例として、長い間神経症に苦しんだ患者が、不幸な結婚や破産や重い身体疾患など、現実的不幸を契機にして、神経症からは解放されたといったケースをあげている。
このようなケースでは、最初からの前提として「自分は苦しまねばならない」という結論があり、その手段として神経症が選択されたわけで、他の形での苦痛を手に入れれば神経症の方は必要なくなるというわけなのだ。
マゾヒズムの形
本論文で、フロイトはマゾヒズムを三つの形態に分類している。
性源的マゾヒズム、女性的マゾヒズム、そして道徳的マゾヒズムである。
第一の性源的マゾヒズムは、身体的な苦痛自体が性的快感になるというもので、マゾヒズムという言葉の本来の意味に近い。これは、一種の倒錯である。いわゆる正常の性生活においては、倒錯的な要因が多く入り混じっており、むしろ倒錯こそが性の本質といってもよいくらいである。苦痛が快になるというのも、例外というよりは性の本質的な部分を占める。身体的苦痛の表情と、性行為における絶頂の時の表情は酷似している。
第二の女性的マゾヒズムは、性源的マゾヒズムと区別しにくいが、もう少し対象との関係ということが意識されているようだ。つまり、受身的姿勢であり、対象から辱められて屈服するという側面が強調される。去勢され、性交を強要され、子供を孕まされるということである。「女性的」といいながら、フロイトは男性におけるこのような嗜好性を強調している。
第三の道徳的マゾヒズムは、脱性化されたマゾヒズムである。リビードは死欲動の危険性を中和するものであるから、脱性化されるということは危険なことでもある。道徳的マゾヒズムは、無意識的罪責感とも関連している。
本来的なマゾヒズムはサディズムと同一のものとみなされる。自分が自分を攻撃するのだから、それをサディズムと見るかマゾヒズムと見るかは視点の違いである。そうは言うものの、そこに心的装置の審級という概念をとりいれると、区別がでてくる。それは、自我にとってはマゾヒズムであり、超自我にとってはサディズムである。
エロースの混合
性源的マゾヒズムと女性的マゾヒズムと道徳的マゾヒズムは、もちろん別々のものではなく、重なり合い移行し合うものである。
例えば道徳的マゾヒズムは、もっともリビード的な要素が少ないマゾヒズムであるが、「父からの懲罰」、「尻を叩かれる」といった連想を通じて、女性的マゾヒズムや性源的マゾヒズムに変貌する。そうなると、リビード的要素も多くなってくる。
そもそも、マゾヒズムは死の欲動から生じるが、エロースとの混合が不可欠である。その混合の割合も、マゾヒズムの三分類に関係しているようだ。
また、一般的な性欲にもマゾヒズムの要素がひそんでいることがある。男性が女性に尻に性的魅力を感じるといったところには、マゾヒズムの味つけがある。
Das ökonomische Problem des Masochismus (1924)
小粒だが重要な論文。位置づけとしては、「快原理の彼岸」で導入した生の欲動と死の欲動の理論を、「自我とエス」の心的装置モデルもふまえて補足するもの。抽象的題材なだけに難解である。
経済論というのは、フロイトのメタサイコロジイで重要な視点である。心的装置の振舞いはさまざまな要因に影響されるが、最終的な決定は量的要因によってなされるという。つまり、諸要因はそれぞれ量に還元され、その量の足し算引き算によって、病気になるかならないかとか、どのような疾患が選択されるかとか、そういったことが決まる。
いわば損得勘定なわけだが、そのような視点からマゾヒズムの問題を考えてみようというのが本論文の目的。採算の面から考えて、マゾヒズムは合うのかどうか。
普通に考えると、サディズムはそれに見合った利益を個人にもたらしてくれる。他者を攻撃し排除しようとすることは、利己的な自己保存の目的にそっている。だから、個体がサディズム的傾向を本来的にもっていることは、容易に理解ができる。
であるから、マゾヒズムは人間が根源的にもつサディズムを、自己に向けかえることから二次的に生じるものと考えると理解しやすい。フロイトも最初はこのように考えていた。
本論文で提案されているのは、以上のような常識的な見方に対して、一次的なマゾヒズムが存在するのではないかという新しい仮定である。
自虐的な動物
人間は根源的にマゾヒスティックである、というのは一つの逆説だが、なかなか心にしっくるくるものがある。それは、もしかすると私自身がマゾヒストだからかもしれないが、周囲の人や世の中の動きを見ていても、人間は本来自虐的であるととらえると納得できることが多い。
フロイトも長年の臨床経験を経て、このような結論に達した。そのような印象を与えた例として、長い間神経症に苦しんだ患者が、不幸な結婚や破産や重い身体疾患など、現実的不幸を契機にして、神経症からは解放されたといったケースをあげている。
このようなケースでは、最初からの前提として「自分は苦しまねばならない」という結論があり、その手段として神経症が選択されたわけで、他の形での苦痛を手に入れれば神経症の方は必要なくなるというわけなのだ。
マゾヒズムの形
本論文で、フロイトはマゾヒズムを三つの形態に分類している。
性源的マゾヒズム、女性的マゾヒズム、そして道徳的マゾヒズムである。
第一の性源的マゾヒズムは、身体的な苦痛自体が性的快感になるというもので、マゾヒズムという言葉の本来の意味に近い。これは、一種の倒錯である。いわゆる正常の性生活においては、倒錯的な要因が多く入り混じっており、むしろ倒錯こそが性の本質といってもよいくらいである。苦痛が快になるというのも、例外というよりは性の本質的な部分を占める。身体的苦痛の表情と、性行為における絶頂の時の表情は酷似している。
第二の女性的マゾヒズムは、性源的マゾヒズムと区別しにくいが、もう少し対象との関係ということが意識されているようだ。つまり、受身的姿勢であり、対象から辱められて屈服するという側面が強調される。去勢され、性交を強要され、子供を孕まされるということである。「女性的」といいながら、フロイトは男性におけるこのような嗜好性を強調している。
第三の道徳的マゾヒズムは、脱性化されたマゾヒズムである。リビードは死欲動の危険性を中和するものであるから、脱性化されるということは危険なことでもある。道徳的マゾヒズムは、無意識的罪責感とも関連している。
本来的なマゾヒズムはサディズムと同一のものとみなされる。自分が自分を攻撃するのだから、それをサディズムと見るかマゾヒズムと見るかは視点の違いである。そうは言うものの、そこに心的装置の審級という概念をとりいれると、区別がでてくる。それは、自我にとってはマゾヒズムであり、超自我にとってはサディズムである。
エロースの混合
性源的マゾヒズムと女性的マゾヒズムと道徳的マゾヒズムは、もちろん別々のものではなく、重なり合い移行し合うものである。
例えば道徳的マゾヒズムは、もっともリビード的な要素が少ないマゾヒズムであるが、「父からの懲罰」、「尻を叩かれる」といった連想を通じて、女性的マゾヒズムや性源的マゾヒズムに変貌する。そうなると、リビード的要素も多くなってくる。
そもそも、マゾヒズムは死の欲動から生じるが、エロースとの混合が不可欠である。その混合の割合も、マゾヒズムの三分類に関係しているようだ。
また、一般的な性欲にもマゾヒズムの要素がひそんでいることがある。男性が女性に尻に性的魅力を感じるといったところには、マゾヒズムの味つけがある。
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プロフィール
Author:重元 寛人
重元寛人です。本名は佐藤寛といいます。
フロイト全集の読解を再開いたします。よろしく。
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