精神分析への抵抗
精神分析への抵抗(太寿堂真 訳 2007)
Die Widerstände gegen die Psychoanalyse (1925)
精神分析が世間にもたらした反発について述べた文章。同様の趣旨のことは、これまでに何度も述べられている。精神分析への人々の反発が、その内容に対する情動的な反感からきていること、それは個々の患者が分析治療において表現する抵抗と同じ性質のものであると論じる。特に多くの人の気にさわるのが、性欲を重視した欲動理論と、エディプスコンプレクスの理論であるという。
後半には、文化論が少し展開されており、後に書かれる「ある錯覚の未来」や「文化の中の居心地悪さ」に発展していくような内容だ。
フロイトの考える理想的な、あるいはよりましな社会というものが、具体的にどんなものなのかはよくわからない。例えば、現代の日本社会などを見ると、フロイトが暮らしたヨーロッパの社会よりは、社会による欲動の抑え込みは穏やかになったと言えるだろう。とりわけ、性的なことについては、いき過ぎじゃないかとも思える程おおっぴらになされている。天真爛漫として、自由でよいのかもしれないが、人々が自分勝手に利己的欲求ばかり追及している様は、どうなんだろうかなとも思う。
Die Widerstände gegen die Psychoanalyse (1925)
精神分析が世間にもたらした反発について述べた文章。同様の趣旨のことは、これまでに何度も述べられている。精神分析への人々の反発が、その内容に対する情動的な反感からきていること、それは個々の患者が分析治療において表現する抵抗と同じ性質のものであると論じる。特に多くの人の気にさわるのが、性欲を重視した欲動理論と、エディプスコンプレクスの理論であるという。
後半には、文化論が少し展開されており、後に書かれる「ある錯覚の未来」や「文化の中の居心地悪さ」に発展していくような内容だ。
ある種の欲動の蠢きを社会は過度に抑え込んでいるが、これらがもっと充足されるのを容認すべきである。また他の欲動については、抑圧を通して抑え込むという目的に相応しくない方法をやめ、より良い、もっと確実なやり方で置き換えるのがよい。(22-334)
フロイトの考える理想的な、あるいはよりましな社会というものが、具体的にどんなものなのかはよくわからない。例えば、現代の日本社会などを見ると、フロイトが暮らしたヨーロッパの社会よりは、社会による欲動の抑え込みは穏やかになったと言えるだろう。とりわけ、性的なことについては、いき過ぎじゃないかとも思える程おおっぴらになされている。天真爛漫として、自由でよいのかもしれないが、人々が自分勝手に利己的欲求ばかり追及している様は、どうなんだろうかなとも思う。
2007.12.23
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