ある錯覚の未来
Die Zukunft einer Illusion (1927)
「幻想の未来」として知られている著作であるが、今回の全集ではIllusionを「錯覚」と訳すことになったようで「ある錯覚の未来」。
ここで言う「ある錯覚」とは、宗教のこと。文化における錯覚たる宗教、その未来はどうなるのか、あるいはどうすべきなのか、ということについて考察した著作である。
錯覚。やはりどうも慣れない。「宗教は幻想である」という方が良かったような気がする。ま、この点については、また後で考えることになるだろう。
I
本章の冒頭で述べられる文化についての問題提起は、3年後の著作『文化の中の居心地悪さ』へとつながっていく主題である。
まずは、フロイトによる文化の定義。
私は文化と文明とを切り離すことには反対であり、人間の文化ということで、人間の生が自分に備わる動物的な条件を脱し、動物の生から区別される所以の総体のことを考えている。この人間の文化には周知のように二つの面が認められる。そこには、一方では、人間が、自然の諸力を支配し諸々の人間的な欲求を充足させるべく、自然から様々の富や物資を奪い取るために獲得してきた知識と能力の一切が包摂されるが、他方では、人間相互の関係を律する、とりわけ手に入る物資の分配を律するのに必要な仕組みのすべてが含まれる。(20-4)
文化と文明の区別をしないというのは、そこに実質的な違いがないということだろう。
Wikipediaによれば、文明とは「人間が創り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す」とのこと。しかし何が高度であるかということには主観が入りがちであり、文化と文明を区別する根本的な理由というものはない。
「文明の曙」において、我々の先祖は道具を使い協力して狩猟をしたり、農耕を開発して生産を伸ばしてきたりしたという。「自然から様々の富や物資を奪い取るために獲得してきた知識と能力」とは、そういうことだろう。
しかしもうひとつ重要なのは、自然から得た富をいかに分配するかとういう問題である。そのために、「人間相互の関係を律する仕組み」とういうものが必要になるわけだ。
文化のこの両方の方向は互いに独立しているのではない。というのも、第一に人間相互の関係は、実際に手近にある富で可能となる欲動充足の程度に深く影響されるからであり、第二に個々の人間自身も、他人からその労働力を利用されたり、性的対象とされたりする以上、一個の物資として他人と関係することもあるからで、第三にまた個々人一人ひとりは、広く人類全般の関心であるはずの文化には潜在的に敵対しているからである。(20-4)
自然から富を得る技術と、人間相互の関係を律する仕組みは、無関係ではない。
その理由を、フロイトは3つあげている。
第一の点は、例えば食料が乏しいか豊かに手に入るかで人間関係の有り様が変わってくるといったことだろう。
第二の理由には、いよいよフロイトらしい視点が入ってくる。
自然から得られた富の配分と言われてまず思い浮かぶのは、食料のことだ。誰が一番うまいところを取るかで喧嘩になることもあろうが、それでもまだ単純な話だ。
むずかしいのは、人間そのものが直接欲求の対象になる、性の領域である。原始の人類は食料の獲得と分配だけに熱心だったのか、いやそんなことはなかろう。性にまつわる事柄は、人類の遠い祖先にとっても大きな関心と争いの的だったに違いない。
第三の点は、本論文の主題であり、次の『文化の中の居心地悪さ』にもつながる重要なテーマである。
奇妙なことに、人間は孤立しては生存できないのに、共生を可能とするために文化から求められる犠牲についてはそれを厄介なものと感じるのだ。(20-4)
ここのところは、実感としてよくわかる。
人間とは恩知らずなもの。文化のおかげでより安全に快適な生活ができるようになったはずなのに、その文化から強制されることを嫌がるのだから。
誰もが潜在的には文化に敵意を持っていて、一部の人は実際にその敵意を行動にうつし文化を破壊しようとする。だから文化は、これらの敵意に対して身を守らなくてはならない。
ここで文化を擬人化して述べているけど、実際にそれを担っているのは人間なんですね。
文化に敵対する人間と、文化を守ろうとする人間がいる、ということ。
もちろん一人の人間の中にも、文化に敵対する気持ちと、文化を守るために担っている役割とが混在していることだってあるだろう。いや、大抵の人はそうだ。
潜在的で穏やかな文化への反感というと、「昔はよかった」というのがある。
自分の幼少期の生活が懐かしく思い出されるというだけでなく、文明化の遅れていた昔の生活をことさら美化する傾向である。
「技術は進歩して生活は便利になったが、人間は本当に幸せになったのか」といった疑問もこの類のものだ。
実際に田舎に行って自給自足に近い生活をはじめる人もいるが、多くの人は憧れるだけで都会の便利な生活を手放せないようである。
人類がこと自然の支配に関してはたえず進歩をなし遂げ、今後もこれまで以上に大きな進歩を遂げるであろうことが期待されるのに対して、人間相互の関係や関心の調整に関してはそれに似た進歩をしかと認めることができず、今ふたたびそうであるように、どうやらいつの時代にあっても多くの人間が、自分たちの獲得してきたこの一片の文化とはそもそも守るに値するものであるのかと自問してきたらしい。(20-5)
技術の進歩というのはわかりやすい。旧い物より新しい物がすぐれているのは明らかで、誰もが納得する。
しかも確実に進歩している。カメラ、ステレオ、携帯電話、パソコン、年々進歩して後戻りすることはない。最新のものが最高である。
ところが、富の分配、人間関係の調整というものを取り決めた、社会制度や政治システムということになると、進歩はしてるのだろうが、いきつもどりつではっきりしない。
現在のシステムも、とても最高とはいえず、不完全で不公平なものに見えてしまう。
こうして人は、文化とは、権力と強制の手段を領有するすべを心得た少数の者が、嫌がって逆らう多数の者に押し付けたものであるとの印象を覚える。(20-5)
こういう印象は、もしかすると文化がいくら進歩しても拭い去れない、本質的なものなのかもしれない。
要するに、文化の仕組みはある程度の強制によってしか維持されえないのは、人間の中に広く蔓延するこの二つの特性、すなわち人間は自発的に労働しようという気がなく、彼らの情熱に対しては論を説いても無益であるという特性のせいなのである。(20-6)
後の方の特性が少しわかりにくいが、人間は理屈よりも感情で動くものだからいくら正しいことを説き伏せてもいやなことはやらない。そういう人間を動かすためには、説得ではなくて強制するしかない、ということだろう。
これに対してフロイトは、ひとつの反論を想定している。
曰く、上記の性質は人間の根本的な性質ではなく、文化が不完全なために生じたものであろうと。
幼少期から愛情をもって育て、文化の恩恵に浴して成長した人間は、文化のために自発的に働く人間になるのではないかと。
この意見も正論であり理想論でもある。
ただ、すぐに実現するのは困難だし、完全に実現するのはおそらく無理である。
ひとつの理想としてめざされては来たと思うが、現代においても文化における強制がなくなっていないのは周知のとおりである。
この理想主義で思い出すのは社会主義のことであり、フロイトも触れている。
それゆえ、現在、ヨーロッパとアジアにまたがる広大な国で試みられている壮大な文化実験について判断を下すつもりは全くないということをはっきり明言しておきたい。
と、明言しているものの、文章の流れからいってフロイトが社会主義に懐疑的であったことは容易に読み取れる。「壮大な文化実験」という言い方からして皮肉っぽいし。
この実験が失敗に終わったことは、歴史が示すとおりである。
II
一貫した表現が望ましいから、ひとつの欲望が充足されえないという事実をわれわれは不首尾Versagungと呼び、この不首尾を固定する仕組みを禁止Verbot、そしてこの禁止が招き寄せる状態を不自由Entbehrungと呼ぶことにしよう。そうなると、次の課題は、不自由の中でも、万人を見舞う不自由と、そうではなくて単にある集団や階級、のみならず個々の人だけを見舞う不自由とを区別することである。(20-9)
われわれが普段使う「不自由」は後者の、特定の個人だけを見舞う不自由にあたる。例えば、仕事が忙しくて自由な時間がないっていう場合、仕事をせずに遊んで暮らせる身分もあるというように。
では「万人を見舞う不自由」とはなにかといえば、それは最古の不自由であり、それを禁止されることによって人間が動物的な原始状態を脱したような、そういう不自由であるという。
具体的には、
近親相姦、
食人、
殺人、
を禁止されるという不自由のことである。
このあたりが、フロイトについていけなくなるかどうかの分かれ道であるかもしれない。
私も、近親相姦と殺人はいいにしても、食人はどうもぴんとこない。
ただ、人間の食欲がこれ程旺盛なのは、単なる個体保存以上のものが何か底にあるような気もするのであるが。
ともかく、人間には文化によって禁止されたいろいろな不自由がある。
いちいち禁止されて不自由に感じていてはつらくてやってられないよ、ってことでこの禁止は内面化されることになる。
外的な強制が、心の特別な審級である人間の超自我によってその命令圏内に取り込まれることで次第に内面化されてゆくのは、われわれの発展の方向に沿うものである。(20-10)
超自我というのは、心の中にあって自らを律するもの(審級)のこと。
詳しくは、『自我とエス』などの著作を参考のこと。
超自我によって人は自らを律し、文化から強制されることはその分少なくなるわけだ。
この超自我の強化とは、極めて貴重な心理学上の文化遺産であり、超自我の強化を経た人は、文化の敵対者から文化の担い手へと変身する。(20-10)
文化の担い手となる人物とは、その文化の中で比較的多くの恩恵をこうむっていて支配的な立場にいる人であろう。
これに対して、不遇な地位にあり文化から強制される立場の人は、これに反発して、つまりは反体制的になる。
こういった、文化への敵対をうまくそらすための仕組みがいくつかある。
ひとつは、文化理想。国でいえばナショナリズムというようなこと。
文化理想から得られるナルシシズム的な満足感は、ある文化圏の内部で生じる、その文化に対する敵意をうまく牽制する力のひとつである。人一倍この文化の恩恵に浴している階級だけでなく、抑え込まれている者たちも、この文化圏の外にいる者たちを軽蔑してよいという権利を得ることによって、自分の文化圏の内部の不遇に対する代償を手にするのであり、そのかぎりでは、彼らもまた文化の恩恵にあずかっている。(20-13)
フロイトはローマ市民としての誇りを例にあげている。
当時であれば、ナチズムの台頭といったことも思い浮かぶ。ユダヤ人であったフロイトが、その犠牲となったことは周知のとおり。
文化理想は対外的に危険な面をもっているが、異なる文化が独自性を競い合いつつ存続してきたことの要因でもある。
文化からの恩恵のもうひとつは、芸術である。
ずいぶん以前に明らかにしたように、芸術は、今なお痛切に感じられる最古の欲望断念に対する代替満足を与えるものであり、それゆえこの断念のために捧げられる犠牲を宥める上で芸術に勝るものはない。(20-13)
ここでいう芸術とは、演劇など個人の空想を具象化するようなものをさす。
現代であれば、映画やゲームなど、娯楽作品も広く含まれるであろう。
そして、文化への敵対をそらす仕組みの最後のもの、本論文の主題となるのが宗教である。
III
一方には人間の力ずくの試みをすべて嘲笑うかに見える自然の猛威、たとえば揺れ動いては引き裂け人間の営みや人間の手になるものすべてを多い尽くしてゆく大地、ひとたび氾濫すれば一切を押し流し呑み込んでいく水流、すべてを吹き飛ばしてしまう嵐がある。(20-15)
フロイトが日本の震災や津波を予言したのだろうかと神秘的な気にもなるのだが、もちろんそんなことではない。
天災は忘れた頃にやってくる。
文化によって自然をかなり征服した人間が「もう自然なぞ怖くないぞ」と奢り高ぶったころにやってくる。
もっとも、人間が奢り高ぶるのも天災によって自然の厳しさを再認するのも、文化がはじまって以降のことであったろう。
もともと自然は問答無用であって、そこで生きる動物が異をとなえることはない。
文化によって自然の一部を制御し食事や安全を確保できたことは、人間にとって大きな成果だった。
しかし初期の文化はとりわけ不完全で、自然によって簡単に破壊されてしまう。
こんな文化、ほんとに役立つのか。
文化にとって重要な課題は、人間を納得させることだった。
納得させる方法は、自然の擬人化。これが宗教的表象の起源である。
この擬人化にはひとつのモデル、模範がある。
とういうのは、人はすでに一度、小さな子供として両親に対する関係においてそのように寄る辺ない状態にいたことがあり、そこでは両親、とりわけ父親は、当然、恐るべき存在でありながら、またその頃にもすでに知っていた危険から自分を必ずや守ってくれる存在でもあったからだ。(20-17)
寄る辺ない幼児にとって、厳しさと、やさしさをもった存在。
それが両親、とりわけ父親だったわけだ。
なぜ、「とりわけ父親」なのか。
母親だと、厳しさが足りないのかな。
ともかく、そういった両親(父親)像を模範として宗教的表象がつくられた。
神々の登場だ。
自然の脅威を払い除けること、とりわけ死という局面で現れる運命の残酷さとの和解を図ること、さらに文化的な共同生活が人間に課す苦痛と不自由とを補償すること、これらの三重の課題を神々は担い続けている。(20-18)
宗教的表象=神々には、3つ(または2つ)の課題が課せられている。
第一、自然の脅威を払いのけること。
これはもちろん心理的にということで、実際に危険が減るわけではない。
大地震は神の怒りであるとか、気候がよくて豊作だったのは神の恵みであるとか、そもそもこの世界は神が創造したのだとか、そういう自然についての解釈のことである。
第二、死という局面で現れる運命の残酷さとの和解を図ること。
これは第一の課題の延長にもなるけれど、死によってもらされる悲しさ、残酷さ、自分が死ぬことへの恐怖をやわらげようとするために、天国や地獄など「死後の世界」を提示することでしょう。
第三、文化的な共同生活が人間に課す苦痛と不自由とを補償すること。
「殺してはいけない」「盗んではいけない」と、道徳・倫理にあたる課題のこと。それが単に強制されるのではなく、そのような生き方が神の思し召しにそった価値あるものであるという満足感をも与えるっていうところが大事なのだろう。
これら3つの課題は、重なりあい相互に影響しあっている。
そして、おそらく歴史的にはこの順序で発展してきた。
現代では、第一の課題は大部分自然科学による世界観に置き換えられた。
第二の課題については、自然科学はなにも教えてくれない。
第三の課題は、宗教を基盤として作られた法律や社会的マナーによって整備されている。
IV
第4章からはダイアローグ形式ですすんでいく。
つまり架空の反論者との対話をする形だが、フロイトの作り上げた反論者はかなりするどいところをついてくる。
つまりこれらは説明のための反論ではなく、彼自身かなり肩入れをしている「もう一つの意見」ともいえるのではないか。
この章で肝となるのは、なぜ他ならぬ父親との関係が自然を擬人化する模範となるのか、という点である。
なぜ子供にとって最初の対象である母親ではないのか。
しかし父親への関係には独特の両価性(アンビヴァレンツ)が付きまといます。以前の母親への関係ゆえか、父親自身がひとつの危険でした。父親は憧れと賛嘆の的であるだけでなく、それに劣らず恐れの的でもあるのです。(20-25)
もちろん神々の中には女神もいただろうが。
宗教が一神教という形に統合されていくと、神は父親らしい形になってくる。
ここで宗教的表象として主に想定されているのは、キリスト教のことである。
V
宗教上の教義がいかに不合理なものであるか、フロイトはユーモアを交えて暴き立てていく。
宗教が語っている内容が信じがたいものである、ということは古くから人々が感じていた。
にもかかわらず、あの手この手で宗教上の教義は守られてきた。
第一の試みは教父の《不条理ゆえにわれ信ず》〔Credo quia absurdum〕という信条である。(20-30)
この言葉は、二世紀後半から三世紀初頭の教父テルトゥリアヌスが語ったものとされている。
この旧い時代からすでに、キリスト教の教義は不条理なものと感じられていたということでもある。
この言説自体不条理ともいえるが、それでもなにか説得させるものがある。
信じがたいことだからこそ、信じる価値がある。
理屈ではなく、信仰である。
宗教的信条について、繰り返し主張されてきたことだ。
第二の試みは「かのように」哲学の試みである。(20-31)
これを表明したのはハンス・ファイヒンガー(1852‐1933)というドイツの哲学者であった。
宗教的な教えなど多くの人はあまり信じていないが、それでもそれが正しい「かのように」ふるまうことが大切である、という考え方である。
「かのように」哲学は、現代における宗教に対する大多数の態度をうまく言い当てている。
聖典に書かれていることが文字通りの真実とは思わないが、皆もそのつもりで尊重している。
宗教的な権威というものは、世の中の秩序を維持するために大切ではないのか、というわけである。
これら二つの「試み」は、なかなか説得力のあるものである。
そして、それほど不条理な宗教上の教義がこれほど長きにわたって力をもってきたという実績がある。
無神論的主張は、フロイトのずっと前からあるし、現在までの状況を見ても宗教は影響力を弱めつつも決して力を失っていない。
これらの教義の内的な力はどこにあるのか、それらが、たとえ理性によって認められなくてもこれほどの影響力を持つのはどのような事情に拠るのか、これを問わなくてはならない。(20-32)
VI
宗教上の教義が不条理にもかかわらず存続してきた理由。
自らの教義を騙(かた)るそれらの表象は、経験の沈殿や思索の最終的な結果ではなく、錯覚であり、人類の最古にして最強の、そしてもっとも差し迫った欲望の成就である。(20-32)
ここで使われている「錯覚Illusion」の定義は独特なので注意する必要がある。
ちなみに、最初に述べたように以前の翻訳では「幻想」とされていた。
このように、欲望成就が主たる動機となって何かが信じられている場合、われわれはそれを錯覚と呼ぶ。(20-34)
錯覚に似ているものに妄想があるが、後者では現実に反していることが本質的である。
現実かどうかは人々に共有されているかどうかで決まるので、錯覚と妄想の区別も相対的であり程度問題である。
VII
この章の冒頭では少し寄り道があるのだが、これが興味ぶかい。
文化の中に宗教以外にも錯覚があるのではないか、という疑問である。
われわれの文化の中での異性関係もまた、性愛に関する一連の錯覚のせいで曇っているのではないか。(20-37)
おそらく異性間恋愛や結婚制度にまつわる錯覚のことを指しているのだろうなあ、といろいろ想像される。
話題を広げすぎるのは手におえない、と宗教に限定された話題に戻ってしまうのだが。
さて、論敵は「宗教が錯覚である」というフロイトの主張を一部認めつつも、それを大衆に知らせるのは危険だ、と言いはじめる。
考古学的な関心はもちろん賞賛に値します。でも現に生活している者の居住地の下を掘ったために、そこが陥没して人々が瓦礫の下に生き埋めになるようなら、発掘などしないものです。(20-38)
しかし、フロイトが指摘するずっと以前から宗教の化けの皮は剥げてきているのだ。
宗教の空洞化、権威の失墜は、放っておいても進んでいくであろう。
かくなる上は、これら危険な大衆を厳重に押さえ付け、精神的な覚醒に繋がるあらゆる機会から彼らを遮断するべく目を光らせるか、それとも、文化と宗教の関係を根本的に修正・再検討するか、そのどちらかしかないのである。(20-44)
もちろん目指すのはべきは後者の試みである。
VIII
「文化と宗教の関係を根本的に修正・再検討する」とは穏当な表現で、はっきり言って神はもういらないということだ。
たとえば人はなぜ他人を殺してはいけないのか。
それは、自分が誰かを殺せば自分も誰かに殺されるかもしれないからである。
お互いに殺さないことを、合理的に取り決めたのだ。
もっとも文化の指図についての合理的な説明は、あくまで仮想的なものであって歴史的な事実とは考えにくい。
人間は感情に流されやすく、なかなか合理的には行動できないものだ。
太古の人間は互いに殺しあっていた。
そしてついに、群れのリーダーたる原始の父、原父を、皆で協力して打ち殺してしまったのだ。
これがフロイトのいう「原父の殺害」。
人間はもとより自分たちが暴力的な行為によって父を片づけたことを知っており、この冒涜の行いに対する反応のひとつとして、父の意志を以後、尊重することを自らに課した。宗教上の教義は、それゆえ、ある種の変形と変装とを加えた上でとはいえ、歴史上の真実をわれわれに伝えているのである。(20-48)
合理的な取り決めで済むのであれば最初から神の出番などなかったろう。
「殺してはならない」ということを実現するためにも、宗教的教義は歴史的に必要だったわけだ。
そんなわけだから、すでに宗教が必要なくなってもそれを合理的な取り決めに置き換えるのは非常に難しい。
ここでフロイトは、歴史における宗教の出現を、人間における幼児期の神経症になぞらえる。
宗教は人間全般の強迫神経症であり、幼児の強迫神経症と同様、エディプスコンプレクス、すなわち父親との関係に起因しているのではないか。(20-49)
フロイトがこの著作によって試みているのは、人類に対する分析治療であったのだ!
IX
最後の2章では、宗教という錯覚を廃して合理的な取り決めに置き換えるための計画が語られる。
それは、子供への宗教教育の廃止である。
健康な子供の輝かしい知性、凡庸な大人の愚昧、両者のあいだの気のめいるような対照を考えてごらんなさい。こうした相対的な萎縮のうちのかなりの部分は、まさに宗教教育のせいだと言うことはできないでしょうか。(20-53)
ここにおいて、フロイトは理想主義的で楽観的であり仮想の論敵は保守的である。
論敵は子供の教育にとって宗教は必要であると主張し、人間はそのような慰めなしでは生きられないのではないかと心配している。
しかし、幼年期とは乗り越えられるべき定めにあるのではないでしょうか。人間は永久に子供のままであることはできません。最後には「敵意に満ちた人生」の中へ漕ぎ出してゆかなければなりません。(20-56)
X
宗教を廃止した後に残るものは知性である。
強い情動の流れに対するのに知性の力はいかにも弱いのだが、他に頼れるものはないのだ。
知性の声はか細い。しかしこの声は誰かに聞き取られえるまでは止むことがない。(20-61)
フロイトはオランダ人ムルタトゥリの言葉をひき、宗教に代わってアナンケー(苦境・運命)に対峙するものとして、ロゴス(理性)をあげている。
めざすところは隣人愛と苦悩の軽減である。
神に変わってロゴスによって世界の営みを説明しようとするのが科学である。
宗教が与えてきたものを科学は与えられない、という批判は今日でも続いている。しかし、科学が与えられないというそのものは、錯覚としての快なのである。
そもそもないものねだりなのだ。
いいえ、私たちの科学とは錯覚ではありません。でも、科学が与えてくれないものをどこか他のところから得られると信じるなら、それは錯覚というものでしょう。(20-64)
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