文化の中の居心地悪さ
Das Unbehagen in der Kultur (1930)
「ある錯覚の未来」の3年後に書かれた続編的な著作であるが、こちらの方が幅広い話題に及んでおり、論調はより悲観的になっているように思える。3年の間に何があったのだろうか。
「ある錯覚の未来」では、仮想の論敵に対して答える形でフロイトの主張が展開された。
「文化の中の居心地悪さ」の冒頭は、前著作へのロマン・ロランの感想を紹介するところからはじまる。
ロマン・ロランによれば、宗教性の本来の源泉は多くの人が共有する主観的な感情であって、それは何か無窮のものにつながっているような感覚、「大洋的」な感情なのだという。
これに対してフロイトは、自分には大洋感情などないと断言した上で、この感情についての分析にとりかかる。
われわれ自身の自我についての感情、自我感情についての考察である。
成人においては、外界と自我の境界は比較的はっきりしているのであるが、これは当然のことではない。恋愛や病的状態では、自我と外界の境界があいまいになることがある。
そもそも人間の根源的状態である幼児期には、自我は外界と融合したように感じられていたのだという。
つまり、われわれの今日の自我感情とは、かつて自我と環境とがもっと密接に繋がっていたのに対応して、今よりも遥かに包括的であった感情、のみならず一切を包括していた感情が萎えしぼんだあとの残余にすぎない。(20-72)
つまり大洋的感情とは、外界とつながってもっと多くのものを含んでいた昔の自我についての感情なのではなかろうか。
さてここからがおもしろいのであるが、成人してからの自我感情と根源的幼児的な自我感情とは個人の心の中で並存している。
われわれは外界と自己をきちんと区別しているのだが、一方では外界に対して自らとつながっているような親近感を感じているのである。
「並存」というより重なり合って存在している、と言った方がよいかもしれない。
ここのところはフロイト心理学における根本的仮定のひとつ、「心的なるものにおける保存」にまつわる問題である。
いわく、心の生活においては、一度形成されたものは何ひとつ滅びず、すべてが何らかのかたちで保存されており、たとえばその時期になるまで届く退行のような好的な機会に恵まれると、ふたたびおもてに現れてくることがある・・・。(20-73)
古いものがいつまでも滅びないだけでなく、古いものの上に新しいものが重なって存在している。
この様相を説明するために、フロイトは歴史的都市ローマの比喩をあげている。
歴史家がわれわれに教えるところによれば、最古のローマはパラティウムの丘の上の、柵で囲った入植地《ローマ・クァドラータ》〔Roma quadrata〕である。これに、個々の丘の上の居住地を統合した《七つの丘の町》〔Septimontium〕の時期、その後にセルウイィウスの城壁をきょうかいとする都市が続き、さらにその後、共和制の時代や初期帝政時代の各種の変遷を経て、アウレリアヌス帝が城壁をめぐらせた都市に至る。(20-73)
現実のローマは古い遺跡と新しい建物が混在して都市をなしているのであるが、そこに想像力を働かせて、古いものが滅びず新しいものと並存している有様を仮定してみる。
この部分の描写はローママニア・フロイトの面目躍如で、説明のための比喩を超えた詳細さである。
古いものと新しいものは出鱈目に重なっているのでなく、時間の順番と場所の連関をもって存在しているのである。
それはともかく、フロイトは多くの人に「大洋」感情なるものが存在することは認めているが、それを宗教的欲求の源泉とみなすことについてはきっぱり否定している。
感情は、それ自身が何か強い欲求の表現である場合にしか、ひとつのエネルギー源とはなりえないからだ。宗教的な欲求は、寄る辺ないという幼児の思いとそれが呼び覚ます父親への憧れから説明されるべきであり、これについては譲れないと思われる。(20-77)
ロマン・ロランのような学問のある者が、宗教がもはや信じるに値しないと薄々気づきつつもそれを未練がましく擁護することに対して、フロイトは手厳しい。
神の代わりに、人格を持たない影のような抽象的原理を出してくれば、それで宗教の神を救えると信じる哲学者どもに対しては、信者たちの列に紛れ込んで彼らと一緒に、主の御名をみだりに唱えるなかれ、と叱りつけてやりたい。(20-78)
さて、「世間一般の人々が信じる宗教」についての話に戻る。
ゲーテからの引用。
「学問と芸術を持つ者は、
宗教をも持っている。
無学無芸の者は、
宗教を持つべし。」
ゲーテ「温順なクセーニエン」第九集(『遺稿詩集』)より
(20-79)
ここでは宗教はある種の慰めものとして価値下げされている。
その前提には「人生はそのような慰めものを必要とする程つらいものだ」という世界観がある。
われわれが背負わされている人生は、あまりにも重く、あまりに多くの痛みや幻滅、解きようのない課題をわれわれに突きつける。この人生に耐えるのに、われわれは鎮痛剤を欠かすことができない。(20-79)
人生を耐えるための鎮痛剤として、フロイトは三種のものを挙げている。
自分の惨めなことなど眼中にないようにするだけの強力な気晴らし
惨めな思いをやわらげる代替満足
惨めさを感じないですむようにしてくれる麻薬
最初の「気晴らし」とは、仕事や学問などに熱中することである。
二番目の代替満足はフィクションの楽しみ。現代では映画やテレビ、ゲームなど、さまざまな代替満足が提供されている。
「麻薬」は、煙草やアルコール、現代なら向精神薬など、幅広い薬物による慰みである。
人生がどうしてそれ程耐え難いのかといえば、われわれ人間が多くを欲し、にもかかわらず現実世界がなかなかそれを与えてくれないからだ。
お気づきのように、人生の目標を設定するのは、もっぱら快原理のプログラムである。この原理は心的装置の働きを最初から支配している。この原理が目的にかなうものであるのは疑いえないが、このプログラムは、ミクロコスモスもマクロコスモスも含め、全世界と敵対している。(20-81)
人間が幸福を経験するのは極めて難しく、不幸を経験するのは遥かにたやすい。
苦しみは三つの方面から襲ってくる。
第一は、自分の身体から。
第二は、外界から。
第三は、他者との関係かから。三つのうちでこれが一番大きな苦痛となる。
人間が幸福になる方法。それには快感を目指す積極的なやり方と、苦痛を避けるための消極的なやり方がある。
まずは、一番積極的な方法。
あらゆる欲求を無制限に満足させるというのは、数ある生き方の中でも人の気をそそる点で図抜けているが、これは楽しみを優先して慎重を軽んじることを意味し、長続きせず、やがて報いを受ける。(20-83)
誰もがこうありたいと思う。しかしそこから競争が生まれ、足の引っ張り合いという苦痛な人間関係が生じる。「報い」は、同じように欲求を満足させたい他者からやってくる。
そこでこのような苦痛を避けるという、消極的な方法を考える。
自ら望んで孤独になったり他人から距離をとったりするのは、人間関係から生まれる苦しみから身を守るのに誰もが考える手近な方策である。容易に察しがつくとおり、こうしたやり方で得られる幸福は、平安の幸福である。(20-83)
外界に背を向けることで苦痛は避けられるかもしれないが、やはり寂しいものだ。
もう少し穏便なやり方で他者と協調しながら幸福を追求するという方法はないものか。
人間共同体の一員として、科学が先導する技術の助けを借りて自然に対する攻撃に打って出て、自然を人間の意志に屈服させるのだ。それだと、万人の幸福のために万人と力を合わせることになる。(20-83)
これらの面倒くさい手続きを省略し直接身体に働きかけて幸福を得ようというのが、麻薬による方法である。
幸福を追求し悲惨を遠ざけておくための闘争の中で麻薬の果たす役割は典型として重宝され、個人も集団も自分たちのリビード経済の中でこれに確固たる地位を認めてきた。(20-84)
もちろんこの方法には大きな欠点がある。
反面、この特性ゆえにこそ麻薬が危険で有害なのもまた周知の事実である。時としてこの麻薬のせいで、人間関係が巡り合わせた境遇の改善に費やされえたであろう大量のエネルギーがいたずらに空費されていくこともある。(20-84)
フロイトといえば、若い頃にはコカインの研究に熱中し、自らもそれを試していたのは周知のこと。
麻薬の魅力とその恐ろしさを身を持って知っていたに違いない。
現実世界で苦労なしには得られない快楽を麻薬によって苦労せずに得てしまえば、人はもはや現実には見向きもしなくなってしまうだろう。
薬に頼らないというのであれば、自ら欲動の蠢きに働きかけることによってこれを滅却してしまうという方法がある。
フロイトは東洋のヨガを例として挙げているけれど、これは少し理想化されているのかもしれない。解脱するというのは、そう簡単なことではない。
あるいはもう少し控えめに、欲動生活の抑制だけを目指すという方法もある。
しかしこれも苦労が多い割にいまひとつの満足しか得られないことは否めない。
自我による拘束を受けない奔放な欲動の蠢きが満足させられる場合、それで得られる幸福の感情は、馴致された欲動の満喫による幸福感とは比べものにならないほど強烈である。(20-85)
これが具体的にどういうことを指すのか、フロイト自身経験したことがあるのか、よくわからない。いずれにせよ、めったにないほど難しいことであろう。
他の穏便な方法としては、リビードの目標を外界に受け入れられやすいものに移しかえるというものがある。
欲動の昇華である。
具体例としては、芸術家が創造を通して得る喜び、研究者が問題を解決して真理を認識する喜びなどがある。
芸術家や研究者には誰でもなれるわけではないが、平凡な労働の中にも昇華の喜びはある。
人に生き方を説く上で、個々の人間を現実にしっかり繋いでおく方策として、労働を強調するのに勝る手はない。労働は少なくとも、人間を一片の現実の中に、人間の共同体の中に確実に組み入れる。労働にはナルシシズム的な要素や攻撃的要素、あるいはエロース的な要素といったリビード的要素のかなりの部分を、職業労働とそれに付随する人間関係に遷移できるという可能性が備わっている。(20-87)
空想生活の領域で、代理的な満足を得るという方法もある。芸術作品の享受である。
現代であれば、さまざまなメディアで展開されるフィクションや体験型ゲームもここに含まれるだろう。
現実と敵対し、現実社会の変革を目指すという方向性もある。
この目論見はほとんど成功せず、個人がこれに拘って妄想に至ることもあれば、宗教のような集団的な妄想へと発展することもある。
人生の中心に愛をすえ、愛し愛されることを求める生き方もある。
ここでいう愛は、直接的な性愛ではなく遷移されたリビードによる非性的な愛のことである。
人生の幸福を美の享受に求めるという生き方もある。自然の美しさを嘆賞したり、芸術作品を味わったり、学問によって得られる知識の美しさに感動したり、といったことである。
人は自分の素質や境遇に応じて、以上に列挙したような方法からいくつかを選択して幸福を追求するのであるが、むずかしい。
外界が、なかなか思うようにならないからである。
不都合な欲動資質を生まれつき持っている者にとっては、特にむずかしい。
こういう人に少なくとも代替満足を約束する、人生を処する最後の技法として浮上するのが、神経症の中への逃避であり、それは大概のところすでに年齢的に若いうちに行われる。さらに後年に至って、幸福を求めた自分の努力が徒労に終わったのを思い知らされる者は、慢性中毒の快の獲得になお慰めを見いだすか、あるいは精神病という絶望的な反抗の試みを企てることになる。(20-92)
神経症になる代わりに、宗教という集団妄想に入るという方法もある。
いずれにせよ、これらは幸福を与えてくれない外界を捻じ曲げて自らの思いを優先させるということである。
人間の様々な幸福の可能性を考察するのであれば、ナルシシズムが対象リビードに対して持つ総体的な関係を検討することが欠かせまい。基本的に自分に頼るほかないという事態が、リビード経済にとって何を意味するのか、知りたいものである。(20-93)
幸福というのは、外界、対象によってもたらされるように見えるが、結局のところそれらを幸福と感じるかどうかは自分しだいだ、ということだろうか。
人間が幸福になるのは何故こうも難しいのか。
この問題に取り組むうちに、ついに本著作の主題ともいえる命題が現れる。
この可能性に取り組んでゆくと耳にするひとつの主張は、実に驚くべきもので、しばらくこれについえ検討しておきたい。この主張によると、われわれの悲惨な状態の大半は、われわれのいわゆる文化のせいであり、もしわれわれが文化を放棄し未開の状態に戻るなら、遥かに幸福になるのだそうだ。(20-94)
我々が幸福になるのを妨害していたのは文化だった!
もちろんフロイトがこの本末転倒な話を全面的に支持しているわけではない。
ただ多くの人々がそう感じて文化に敵意を抱いているというのは、なんだか納得できる。
なぜ人々はそのような敵意を文化に抱きがちなのか。
それを考察するためには「文化とはなにか」という本質から明らかにする必要がある。
文化の定義としては、前の著作『ある錯覚の未来』の言及が繰り返されている。
私はかつて、われわれの生活が動物的な先祖の生活と異なるのは、自然から人間を守り、人間相互の関係を律するとい二つの目的に資するある種の活動や制度のおかげであり、「文化」という言葉はそういった活動や制度の総体を指す、と述べたことがある。(20-97)
「自然から人間を守り」という部分は比較的わかりやすい。
文化によって人間は、自然を支配し、他の動物と違う発展を遂げてきた。
歴史的にみればそれは、
道具の使用
火の馴致(じゅんち)
住居の建設
の3点に集約され、それらが発展したのが現在の姿である。
しかし文化の特質としては、これらだけで十分とは言えない。
美と、清潔と、秩序。
以上3点は、文化的と呼ばれる社会では実用的な必要以上に重視されている。
さらに、
知性や学問、芸術、
そして、宗教活動などの高度な心的活動。
これらは文化が文化らしくあるために重要なものである。
しかし、それらは人々に恩恵を与えるだけでなく彼らを律する側面も持っている。
そこで、「人間相互の関係を律する」という文化の第二の目的が重要になってくる。
個人がそれぞれ勝手なことをしないようにその自由を制限する、ということだ。
文化のこの部分こそが、人々の反発を招いていることは容易に想像される。
文化の第一の目的(自然を支配し人間を守る)と第二の目的(人間相互の関係を律する)は、どうやら根本的に不可分なようだ。
個人の自由は文化の賜ではない。この自由が盛栄を極めたのはいかなる文化もまだない時代であるが、もとより当時の個人にはこれを守るすべなどほとんどないに等しいから、自由にはまた大概何の価値もなかった。文化が発展すると、自由は制限されるようになる。(20-104)
文化がまだない時代、個人は思い思いに振舞うことができた。
もっとも、これは動物的なルールのもとで、ということだ。それぞれの力量に応じて、縄張りとか群れでの序列などには従う必要がある。
道具の使用は自然に対して個人を強くしたと同様、他の個人に対しても強くした。従来のように個人が思い思いに振舞ったとしたら、それこそ殺し合いになってしまう。
そういう権力闘争の時代を経て、集団による支配すなわち「共同体の権力」が出現した。
人間らしい共同生活は、多数の者が集まり、それで出来た集団がどの個人よりも強く、またどの個人に対しても結束して対抗するときに初めて可能となる。このような共同体の権力は、今や「法」として、「粗野な暴力」の烙印を押された個々人の権力に対抗することになる。個々人の権力が共同体の権力に取って代わられることが、こと文化に関しては決定的な歩みである。(20-104)
理屈としてはもっともだ。しかし気持ちとしては収まらない。
人間は、文化による制限に対して、あくまでも自由を追求したいのである。
人類の格闘のかなりの部分は、この個人的要求と集団の側からの文化的な要求とのあいだに、目的にかなった、すなわち双方にとって納得のいく幸福な妥協点を見いだすという、ほかに例のない課題に傾注されてきた。(20-105)
「妥協」というのは、フロイトの個人心理学においても重要な考え方であった。
対立した力と力がぶつかりあい、双方にとってそこそこに良いところに達することである。
妥協は、暫定的で流動的である。
個人の側からみると、それは欲動の直接的な表現は断念しつつも文化に許容され推奨される線にそっての表現を試みることである。
そのやり方は個人によって異なり、「性格特性」と呼ばれる。
例えば、極端な倹約、整理好き、きれい好きを特徴とする「肛門性格」がある。
欲動の目標を、文化に許容されるものに変換することを「昇華」と呼ぶ。
欲動の昇華は、文化発展に備わるとりわけ顕著な特質であり、学問や芸術、イデオロギーなどの高等な心的活動は、昇華によって初めて文化生活の中でこれほどに重要な役割を果たしうるのである。第一印象に従うと、昇華とはそもそも文化によって強いられた欲動の運命である、とつい言ってみたくなる。(20-106)
文化の中で生きる我々は、もはやむき出しの、直接的な欲動の表現などなしえない。
欲望として意識されるものは、すでに文化を前提として、制止されたり方向を逸らされた欲動なのである。
昇華によって、文化のために断念された欲動は文化の役に立つものに変換される。
文化の第一の目的にみえた「自然を支配し人間を守ること」にしても、それを達成するためのエネルギーはまさにそこから来ていたのである。
最後にもうひとつ、最も重要と思われる第三の点であるが、文化とはそもそも欲動断念の上に打ち立てられており、様々の強力な欲動に満足を与えないこと(抑え込み、抑圧、あるいは他にも何かあるかもしれない)こそがまさに文化の前提である。(20-107)
欲動断念は、そもそも文化の大前提であるというのだ。
逆説めいているが、非常におもしろい。
これこそが人間の文化を大きく発展させた原動力であり、同時にまた個人が文化に抱く敵意の根源でもあるのだという。
文化がまさに欲動断念の上に打ち立てられているということ、このことを歴史的に再構成してみる。
フロイトの想定によれば、太古において人間の祖先は、首長である父の支配する集団、すなわち「原始の家族」を作って暮らしていた。
『トーテムとタブー』で、私は、この状態での家族から、兄弟同盟というかたちを取った共同生活の次の段階に至るまでの道筋を明らかにするのを試みた。父を打ち倒した際、息子たちは、力を合わせれば一人の者より強いこともあるのを知った。この新たな状態を維持するために、息子たちは互いに様々の制限を課さねばならなかったが、そういった制限の上にトーテミズム文化は成立しているのである。(20-109)
有名な「父親殺し」の話である。
ここで重要なのは、父親を殺すのが「息子たち」であるということだ。
一人の息子が父親を殺したのであれば、それは単なる政権交代、その息子が新たな父親になるだけである。
そうではなく、複数の弱い息子たちが強い父親を殺したのである。
一人の者が力によって支配する状態から、複数の者たちによって支配する状態への変換だ。
必然的に、首長が行使していた権力はトーテミズムとして棚上げされ、人々は互いに様々な制限を課すことになる。
ここで「様々な制限」のうちで、重要なのは性愛にまつわることである。
父親がいた頃には、彼が性的な愛を独占していた。
それが、父親殺しの後には一定の制限のもと皆に分配されることになった。
制限とは、近親相姦のタブーなど性愛関係を結ぶ相手を限定することである。
最終的には、性愛関係を特定の相手に限定するという婚姻制度が完成する。
そのような制限のもとで、直接的な性愛は「目標制止された愛」と呼ばれるものに変換される。
性的な目標を断念したかわりに、制限のない対象に広く向けられる情愛である。
友愛、兄弟愛、ひいては人類愛、世界愛といったものがある。
家族を形成した愛は、直接的な性的満足を断念しないもともとのかたちにおいてであれ、また目標制止された情愛という変容したかたちにおいてであれ、文化の中で作用し続ける。いずれのかたちでも、愛は、かなりの数の人間を相互に結びつけるという機能を継続している。(20-112)
人々を結びつけて集団を作るのは、愛の力だ。
直接的な性愛は、男と女を結びつける。
そこから家族が生まれ、親子愛、兄弟愛、それらによる家族愛が、強い家族の絆を作る。
しかし、そこで留まらない。
文化は、個人がもっと大きな共同体に愛によって結びつくことを要求するようだ。
友愛、共同体への愛、国家への愛、人類愛。
より大きな共同体に帰属することに対して、最初の集団であった家族は抵抗をする。
結束の強い家族ほど閉鎖的になり、そのメンバーは共同体に入っていくことが難しくなるのである。
家族というのは、系統発生的には一段古く幼年期にしか存在しない共同生活の型式だが、これは後に獲得される文化的な共同生活の形式に取って代わられることに逆らうのである。(20-113)
家族の結束が文化に対抗する、というこの流れはわかりやすい。
家族を守ろうとするのは女たちであり、男たちは外へ、文化の仕事を担うために出て行くのである。
文化の求めるところは、愛によって人間をより大きな集団に束ねることである。
二人の人間が性愛によって結ばれ満ち足りている状態。
これだけでは、いつまで経っても大きな集団ができないので困る。
そこで性欲を制限し、そうすることで生じる「目標を制止された愛」をより大きな集団作りのために利用するのである。
そこで問題となってくるのが、人間の攻撃性である。
人間とは、誰からも愛されることを求める温和な生き物などではなく、生まれ持った欲動の相当部分が攻撃傾向だと見て間違いない存在なのだ。(20-122)
攻撃性はすでに、子供がまだ幼いうち、所有というのがその原初の肛門形式を放棄するかしないかという時期に現れ、人間相互のあらゆる情愛的な関係や愛情関係のそこに澱を形成する。ひとり母親が自分の息子に対して持つ関係だけは唯一の例外かもしれない。(20-125)
最後の一文はなかなか意味深なのだが、それはともかく。
攻撃的な人間を束ねるのは容易なことでない。
人間の攻撃欲動に枠をはめ、それが発現するのを心的な反動形成によって抑えておくために、文化は持てるすべてを動員しなければならない。だからこそ、各種の方法を動員して、人間を集団に一体化させることや目標制止された愛情関係へ駆り立てることが画策されるのだ。(20-123)
攻撃性をなんとかする方法のひとつは、外に逸らすことである。
文化圏が比較的小さい場合、外部の者らと敵対することによってこの欲動を放出させてやることができる。(20-126)
こうして、部族と部族の争い、国と国の争いがおこり、それによってそれぞれの集団は結束することができる。
こういうことが歴史上繰り返され、今も続いていることは周知のとおりだ。
攻撃性を外にそらす方法は、それぞれの集団に暫定的な安定をもたらすかも知れないが、集団同士が争っているという点では不安定で、様々な悲劇をもたらすことにもなる。
また集団が大きくなると、この方法に頼るのはむずかしくなってくる。人類全体が結束するには、SFの世界のように宇宙人でも相手にしないといけないことになろう。
集団の外に逸らす以外の、攻撃性への対処としてはどんなものがあるのだろうか。
論をすすめるにあたって、フロイトは欲動理論の変遷についておさらいをする。
欲動理論は、常に対極性の構造をなしてきた。
最初の理論では、自我欲動と対象欲動の対極。
自我欲動とは自己保存のための欲動であり、対象欲動は「リビード的」欲動であるとされた。
理論的発展は、ナルシシズム概念の導入によってなされる。
ここでの図式は、ナルシシズム的リビードと対象リビードの対極である。
性欲動は本来自我に向いており、後になってから対象に向かう。
しかしそれでは欲動の種類は一種類になってしまい、それはまずい。
そこで後期理論では死の欲動という概念が導入された。
エロース(生の欲動)と死の欲動の対極である。
エロースは騒がしく目につき易いが、死の欲動は見えにくい。
死の欲動は、エロースとの混晶化(混じり合うこと)という過程によって、外に見える破壊性となるのである。
エロースと死の欲動の対極という観点から見ると、文化はエロースの働きを表現するものである。
今、これに加えて、文化とは、互いにばらばらだった複数の個人を、後には複数の家族を、さらには部族や民族、国をひとつの大きな単位へ、人類へと包括していこうとするエロースに従属する過程だ、と言っておこう。こうしたことがなぜ起こらなければならないかは、われわれには分からない。分かるのは、これがまさにエロースの働きだということである。(20-134)
ばらばらの個人を人類へのまとめあげていくこと、これが文化の目的である。
しかし、その過程は容易なものでない。
破壊の欲動がその邪魔をする。
文化とは、人間という種において演じられるエロースと死とのあいだ、生の欲動と破壊の欲動とのあいだの闘いをわれわれに示しているに違いない。この闘いは生一般の本質的内実であり、それゆえ文化の発展は、端的に、人間という種による生死の闘いと呼ぶことができる。(120-135)
文化によって示される生と死の闘い、それが文化闘争なのだ。
文化闘争というのは人類に独特のもののようで、他の種の動物では事情が違っている。
どうやら、動物のうちでもいくつかの種、たとえばミツバチやアリ、シロアリなどは、何十万年にもわたる格闘のはてに、われわれが今日、思わず見とれる国家制度や分業、個の制限を実現してきたに違いない。われわれの感性からすれば、こうした動物国家のどの住民になろうと、あるいはまたそこで個体に割り振られる役割のうち何を割り当てられようとも、われわれは自分を幸福だとは感じまい。そこに現在のわれわれの状態の特徴がある。(20-135)
人類はもしかすると、こうした統合の過渡期にいるのかもしれない。
遠い将来、になると思うが、人類が文化によって完全に統合されたならば、個を捨てて全体のために働くことに誰も不満を抱かないようになるだろう。
そういう状態が、幸福かどうかはわからない。あるいはそういう問い立て自体、過渡期故のものなのかもしれない。
あまりに遠い話でピンとこない。
ともかくも現在に生きるわれわれ個人は、グローバルな文化に組込まれていくことに抵抗を感じがちである。こちらの方が実感としてよくわかる。
さて、文化が攻撃的な個人を統合する方法である。
ずばりそれは、個人から発した攻撃性を個人の元へと送り返すということなのだという。
攻撃性を内に取り込み、内面化するのだ。それは本来、攻撃性をそれが由来する元の場所に送り返すこと、要するに自らの自我に向けることである。帰ってきた攻撃性を自我の一部が引き受け、これが超自我となって自我の残りの部分と対峙し、さらに良心となって、ちょうど自我が疎遠な個人に向けて満足させたかったであろう同じ厳しい攻撃性を、自我に対して行使するのである。厳格な超自我とそれに服従する自我とのあいだの緊張は、罪の意識と呼ばれ、懲罰欲求として現れる。このように、文化は個人を弱体化、武装解除し、占領した町で占領軍にさせるように、内部のひとつの審級に監視させることによって、個人の危険な攻撃欲を取り押さえるのである。(20-136)
罪責感の成立には二段階の過程が想定されている。
最初の段階は、子供が両親からの懲罰や愛の喪失を恐れるように、外的権威に対する社会的不安から生じる。
第二段階は、この外的権威が内面化されて超自我になる過程である。
第一段階と第二段階の違いは大きい。
第一段階で問題になるのは外からの目だから、悪いことをしなければよかった。ところが第二段階では、悪いことを思うだけでも罪になるのだ。
邪なことなど思いもつかない程の善人などどこにもいないだろう。
欲するだけでも罪だとなれば、罪責感にはきりがないということになる。
この発達の第二段階で、良心は、第一段階にはおよそ認められなかったある特性を示すようになるが、これはもはや容易には説明がつかない。すなわち、有徳の人であればあるほど、良心はいよいよ厳格で疑い深くなり、挙句の果てには聖徳の極みに達した人に限って、自分のことを全く下劣な罪深い人間と責めさいなむことになる。(20-138)
現実の不遇によって不幸になった場合でも、それは自分の罪深いせい、ということになる。
人間はことがうまく行っているかぎり、その人の良心も穏やかであり、自我も大概のことは気に留めない。しかし、ひとたび不幸に見舞われると、自らの中に閉じこもり、自分が罪深いのを認め、自分の良心の要求を増大させ、自らに節制を課し、償いによって自らを罰する。(20-139)
逆説的のようだが、確かにこういったことはある。
民族全体として強い罪責感をいだいた例として、ユダヤ教を発展させたイスラエルの民のことがあげられている。
外的権威が超自我として内在化される過程について。
厳格な外的権威によって厳しい超自我がつくられる、ということがある。
厳しい親に育てられたような場合である。
ただ、やさしい親に育てられても厳しい超自我を持つ人もいる。
この場合は、本人の元々持っている強い攻撃性が自らに向けられた結果厳しい超自我となった、と考えられる。
前者は外的な要因による過程であり、後者は内的要因による過程であるといえよう。
環境要因と遺伝要因という観点からとらえることもできる。超自我の基盤となるような攻撃性は受け継がれたものであり、そこに環境として外的権威の影響が加わることで個人における超自我がつくられる、というように。
人類が受け継いできた超自我は、太古における原父殺害の刻印であるという。
ではその最初の過程、基盤がないところに超自我がつくられるというのは、いかなるものだったのか。
父を殺した息子たちは、強い後悔の念にかられたのであった。
この後悔は、父に対する原初的な感情の両価性(アンビヴァレンツ)の結果であった。息子たちは父を憎んでいたが、また愛してもいた。憎しみが攻撃性によって満足されると、行為に対する後悔というかたちで愛が前面に現れ、この愛が父との同一化を通して超自我を樹立し、あたかも父に向けてなされた攻撃の行いに対する懲罰のためとでも言うように、超自我に父親の権力を与え、こうした行為がふたたび繰り返されるのを防ぐための制限を設けたのだった。(20-146)
後悔とは、実際に行われた行為についての罪の意識である。
取り返しのつかないことをしてしまった、というあの感覚。そうか、あれは愛の感覚なのだな。
憎しみの方は行為によってすっかり忘れ去られてしまい、「取り返したい」というかなわぬ思いが強くせまってくるのである。
以上は歴史的な再構成の話であるが、個人における超自我の形成にも同じような感情は働いているだろう。
つまり超自我は単に外から押し付けられるのではなく、そこには父への愛という要素が含まれているのではないか。
文化がいかにして攻撃的な個人をまとめあげるか、という課題について考察してきた。
その答えは、個人の中に超自我を樹立することによって攻撃性を内に向かわせるというものだった。
考察の中では文化を擬人化して、あたかも独自の意志をもった存在であるかのように扱ってきた。
文化そのもには意志などなく、あくまでも個人の集合によって成立するものなのだが、それが多くの個人によって担われ受け継がれる中で、有機体としての一貫性をもちつつ発展しているようにみえる。
文化を、人類を統合するという目的にそった有機的な過程、と捉えるのもあながち見当外れではないように思われる。
文化の発展と、個人の発達を対比しつつ検討してみると、そこには共通点と相違点がある。
両者は、スケールは違うが共に人間の営みであり、対立や葛藤を原動力にして発展していく。
個人だけにみられる特徴としては、それが閉じられた系であり、最終的に利己的な存在であるということがある。
個人の利他的な振る舞いは、利己的な動機から生じているわけだが、そこにおける他者が集団となり抽象化したものが文化であり、つまり利他性という側面において個人は文化と対峙することになる。
一方文化の第一目的は人を集団として統合することであり、そこからみれば個人の幸福は二の次なのだが、文化を担っているのが人間である以上、彼らを満足させる手段を提供することも必要である。
文化が比較的小さい文化圏を形成している時には、個人における利己性と同じようなものが生じて、そこから文化圏どうしが対立することもある。しかし、対立の結果より大きな文化圏が生まれると、小さな文化圏の利己性は消えてしまう。そういう意味で、文化は最終的には利己的でない。
個人の発達と文化の発展を結ぶ共通項が、超自我である。
文化過程と個人の発達過程との類似には、さらにもうひとつ重要な一点が付け加わる。共同体もまたひとつの超自我を形成し、その影響下に文化が発展すると断じてよい、というものだ。(20-157)
文化の超自我とは、宗教に代表されるような倫理のことであり、個人の超自我を発達させるための外的権威として働く。
文化の発展過程において、例えばキリスト教のような強力な宗教が出てきて、人々をまとめ上げるのに需要な役割をはたすということがある。
しかし、個人において厳しすぎる超自我がしばしば精神疾患の原因になるように、文化の超自我も時には人々に多くの災いをもたらすかもしれない。
ここでフロイトは、文化を精神分析する試みを提案している。
いわく、文化の発展が個人の発達とかなりの点で類似していて、同じ手段を使って作業するのであれば、いくつかの文化ないしは文化時期が、あるいはことによると人類全体が、文化追及の影響下に「神経症」になっているという診断を下してよいのではないか。(20-160)
文化や人類を精神分析するといっても、個人と違って正常な比較対象がないとか、いろいろ難しいことではある。本論文でこの試みは暗示にとどめられ、具体的な分析はなされていない。
しかしこの流れから、後の著作『モーセという男と一神教』において、フロイトはユダヤ教やキリスト教の起源について分析をなしたのであった。
「あるいはことによると人類全体が」というところに、意味深い啓示を読み取りたくなる。
そもそも、文化をもつ人類というもの自体が根本的に病的な存在なのではあるまいか、というような。
人類はこの地球上で繁栄を誇っているけれども、自然のバランスという点からは異常な存在なのかもしれない。
また、文化による物事の追及ぶりが徹底的で強迫じみていると感じることもある。
人間の共同生活は、人間自身の攻撃欲動や自己破壊欲動によって攪乱されている。人類は、これを自らの文化の発展によって抑制できるのか。どの程度までそれが可能なのか。私には、その成否が人間という種の運命を左右する懸案ではないかと思われる。この点で、まさに現代という時代は、特段の関心を向けられてしかるべき時代と言えるかもしれない。人間は今や、こと自然の諸力の支配に関しては目覚しい進歩を遂げ、それを援用すれば人類自身が最後のひとりに至るまでたやすく根絶しあえるまでになった。人々にはそれが分かっており、現代人をさいなむ焦燥や不幸、不安の少なからぬ部分は、これが分かっているという事実に起因する。「天上の力」のもう一方、永遠のエロースには、ひとつ奮起して意地を見せてくれることを期待しようではないか。だが、その成否や結末はいったい誰に予見できよう。(20-160)
本論文が書かれたのが1930年、最後の一文は1931年に追加された。
ドイツではヒトラーが力を持ち、戦争への暗雲がたれこめていた時期である。
著作から80年が経ち、現在の世の中はどうなったか。
フロイトが「現代」について述べたことは、さらに徹底的に進んでいるように思われる。
第二次世界大戦という危機は大きな犠牲のもとでようやく乗り越えたものの、今でも世界中で局地的な戦争が続いている。
たしかに、人間にとって自らの攻撃性を抑制するのは容易なことではないようだ。
現代にうずまく様々な不満、焦燥、不安などの不幸はそのことからきているのだろう。
それでも、文化による統合という過程は着実に進んでおり、世の中は全体的に良い方向に向かっているようだ。
最後に愛は勝つ、ということを期待したい。
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Author:重元 寛人
重元寛人です。本名は佐藤寛といいます。
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