ヘブライ語版『トーテムとタブー』への序文
ヘブライ語版『トーテムとタブー』への序文 (嶺秀樹 訳 2011)
Vorrede zur hebräishcen Ausgabe von "Totem und Tabu". Jerusalem, verlag Stybel, im Ershceinen (1930)
数あるフロイトの著作の中から、『精神分析入門講義』と共に『トーテムとタブー』がヘブライ語訳の対象として選ばれたことは興味深い。著者自身の意向もあったのだろうか。
ここで言う「ユダヤ的」なるもの何なのかを明確に述べることはできないようである。
ヒントは著作自体にあるのかもしれない。宗教や道徳の起源を論じる本書は、反宗教的な内容ともいえるだろう。宗教をも相対化して真理を追究する情熱的な姿勢というところに、ユダヤ的なるものが関係しているのかもしれない。
Vorrede zur hebräishcen Ausgabe von "Totem und Tabu". Jerusalem, verlag Stybel, im Ershceinen (1930)
数あるフロイトの著作の中から、『精神分析入門講義』と共に『トーテムとタブー』がヘブライ語訳の対象として選ばれたことは興味深い。著者自身の意向もあったのだろうか。
著者は聖なる言語を理解せず、父祖の宗教にも――他のあらゆる宗教に対してと同様に――全く疎遠になっており、民族主義の理想に与しえず、それでもなお、自らの民族への帰属性を否認したことはついぞなく、また自分の特性はユダヤ的であると感じており、これを違ったふうに感じたいと願うこともない。(20-203)
ここで言う「ユダヤ的」なるもの何なのかを明確に述べることはできないようである。
ヒントは著作自体にあるのかもしれない。宗教や道徳の起源を論じる本書は、反宗教的な内容ともいえるだろう。宗教をも相対化して真理を追究する情熱的な姿勢というところに、ユダヤ的なるものが関係しているのかもしれない。
2014.12.22
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