リビード的な類型について
リビード的な類型について (高田珠樹 訳 2011)
Über libidinöse Typen (1931)
フロイトによる性格類型について、簡潔にまとめた論文である。
心的装置を構成する3つの審級である、エス、自我、超自我のどれが優勢であるかという観点からタイプ分けしている。
エロース的な類型: エスの根源的な欲求を代表。愛すること、愛されることを重視して生活する。愛の対象である他者に依存しがちな傾向あり。
強迫類型: 超自我の優勢を特徴とする。良心の不安に支配され、外界には独立、社会的には文化の保守的な担い手になるタイプ。
ナルシシズム的な類型: 自我を押し出すタイプ。自我の攻撃性は能動的な行動として発揮される。他の人々に「人物」としての強い印象を与え、指導者として、文化の発展のために既存のものを破壊するのに適している。
以上の純粋な類型に加え、混合型があり、むしろそちらの方が頻度が多い。これらは二つの傾向の葛藤として表現される。
エロース的-強迫的な類型: 欲動生活の優勢が超自我の影響によって制限される。他者への依存と同時に内的な規範への依存がみられる。
エロース的-ナルシシズム的な類型: もっとも頻繁にみられるタイプ。愛することと愛されることといった対立が行動の中でうまく解消されることもある。
ナルシシズム的な強迫類型: 良心の要請を尊重しつつ力強く実行する能力を備えていて、文化的に最も価値ある様態。
たしかに我々の多くは、対立する傾向の葛藤に悩みつつ生活しているのであり、一つの傾向を単純に追及しているような人はある意味羨ましいとも思える。
さて、以上に加えて「エロース的-強迫的-ナルシシズム的な類型」というものは存在しないのか、という問いに対してフロイトは以下の様に答えている。
すべてにおいてバランスのとれている人とか、きわめて平均的で凡庸な人というのはいるかもしれないが、そこでは性格云々ということは問題にならない。
実際には多少とも偏りがあるのが普通なので、その部分を特徴としてとらえるのであろう。
本類型は、正常と呼ばれる人をも含む対象を分類する試みであって、病理学との関係は単純ではない。つまりどの類型がどの精神疾患になりやすいなどと単純に言えるわけではない。
現実世界で生きていくのはなかなか大変なもので、そのために素質に根差してたてる適応戦略が性格を形成するのであろう。いわば生き方のタイプであって、それぞれのタイプがうまく成功すれば適応できるし、うまくいかなければ病気になることもある、ということなのであろう。
Über libidinöse Typen (1931)
フロイトによる性格類型について、簡潔にまとめた論文である。
心的装置を構成する3つの審級である、エス、自我、超自我のどれが優勢であるかという観点からタイプ分けしている。
エロース的な類型: エスの根源的な欲求を代表。愛すること、愛されることを重視して生活する。愛の対象である他者に依存しがちな傾向あり。
強迫類型: 超自我の優勢を特徴とする。良心の不安に支配され、外界には独立、社会的には文化の保守的な担い手になるタイプ。
ナルシシズム的な類型: 自我を押し出すタイプ。自我の攻撃性は能動的な行動として発揮される。他の人々に「人物」としての強い印象を与え、指導者として、文化の発展のために既存のものを破壊するのに適している。
以上の純粋な類型に加え、混合型があり、むしろそちらの方が頻度が多い。これらは二つの傾向の葛藤として表現される。
エロース的-強迫的な類型: 欲動生活の優勢が超自我の影響によって制限される。他者への依存と同時に内的な規範への依存がみられる。
エロース的-ナルシシズム的な類型: もっとも頻繁にみられるタイプ。愛することと愛されることといった対立が行動の中でうまく解消されることもある。
ナルシシズム的な強迫類型: 良心の要請を尊重しつつ力強く実行する能力を備えていて、文化的に最も価値ある様態。
たしかに我々の多くは、対立する傾向の葛藤に悩みつつ生活しているのであり、一つの傾向を単純に追及しているような人はある意味羨ましいとも思える。
さて、以上に加えて「エロース的-強迫的-ナルシシズム的な類型」というものは存在しないのか、という問いに対してフロイトは以下の様に答えている。
いわく、なぜならそのような類型は、もはや類型ではなく、絶対的な規範、理想的な調和を意味することになるだろうから、というのがその答えである。ここで今さらながらわれわれは、類型という現象が、まさに心的な経済におけるリビードの三つの主要な用途のうち一つないしは二つが他を犠牲にして優遇されることによって成立するのだということに気づかされる。(20-212)
すべてにおいてバランスのとれている人とか、きわめて平均的で凡庸な人というのはいるかもしれないが、そこでは性格云々ということは問題にならない。
実際には多少とも偏りがあるのが普通なので、その部分を特徴としてとらえるのであろう。
本類型は、正常と呼ばれる人をも含む対象を分類する試みであって、病理学との関係は単純ではない。つまりどの類型がどの精神疾患になりやすいなどと単純に言えるわけではない。
現実世界で生きていくのはなかなか大変なもので、そのために素質に根差してたてる適応戦略が性格を形成するのであろう。いわば生き方のタイプであって、それぞれのタイプがうまく成功すれば適応できるし、うまくいかなければ病気になることもある、ということなのであろう。
2014.12.24
コメント
コメントの投稿
トラックバック
http://shigemoto.blog105.fc2.com/tb.php/234-425e25f8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)