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女性の性について

女性の性について (高田珠樹 訳 2011)
Über die weibliche Sexualität (1931)

『解剖学的な性差の若干の心的帰結』(1925)に引き続き、女性のエディプスコンプレクスを扱った論文である。

この間に多くの分析家による議論があったようで、ジャンヌ・ランプル=ド・グロー、ヘレーネ・ドイチェ、ルース・マック・ブランスウィック、カール・アブラハム、オットー・フェニヘル、メラニー・クラインらの意見が紹介され、この時点でのフロイトの見解が示されている。

女性の発達は複雑である。
女はむずかしい、と男から見えがちなのも、この辺の事情によるのかもしれない。

このむずかしさは、女の子の発達における二つの関連し合う課題によっていると思われる。

女性の性の発達は、最初主導的である性器領域、つまりクリトリスがヴァギナという新しい性器領域に座を明け渡すという課題があるために複雑になるということは、かなり以前からわれわれも理解していた。これと似たもうひとつの、対象を最初の母親から父親へと取り換える転換も、同様に女性の発達を特徴づけるものであり、第一の転換に劣らず大きな意味を持つと思われる。(20-215)



男の子でも女の子でも、最初に情愛をもって拘束される対象は母親である。
男の子ではそこから自然にエディプス期へと移行する。
女の子では、エディプスコンプレクスに行く前に、対象の転換という課題を乗り越えなくてはならない。

そこで俄然注目されてくるのが、エディプス期以前の時期である。

女性のエディプス期以前の時期には、神経症の発症原因と考えられるあらゆる固着や抑圧の余地がある。(20-216)



神経症のことだけでなく、「女性であることの特有の特徴」の起源がここにあるという。

女性であることの特徴ってなんだろう。

まず明白なのは、人間の自然資質と主張される両性性が、女性では、男性より遥かに鮮明に出てくることである。(20-218)



人間というものは、男であっても女であっても、男らしさと女らしさの両方の特徴を持っている。
ここでいう男らしさ、女らしさ、とは生物学的な基盤を持ち、また文化的にも規定される役割的な特徴のことだ。

この両性性は、女性においてより鮮明に表現されるという。

ひとつには、女性がクリトリスという男性的な性器と、ヴァギナという女性的な性器と二つの性領域を持っていることと関連している。
しかも二つのうちで最初に活性化されるのは男性的な性器の方で、後になってようやく女性固有の性生活がもたらされるというのだからややこしい。

男らしさから女らしさへの転換の契機となるのが去勢コンプレクスである。

去勢コンプレクスは、もともと男の子が父親によって去勢されることへの不安のことである。
男の子では、去勢コンプレクスがエディプスコンプレクスを克服していくための契機となる。

女性における去勢コンプレクスは、自分がペニスを持っていないことの気づきであり、つまりすでに去勢されてしまっていることへの不満である。
女の子では、去勢コンプレクスがエディプス期以前の時期からエディプス期へと移行するための契機となる。男の子とは順番が違っているのだ。

しかしこの去勢コンプレクスからはじまる道のりは、一筋縄ではいかない。
ここで女の子は、およそ三通りの発達経路をたどるという。

1.性ということからの全面的な離反。
2.頑なに男らしさに固執する。
3.正常とされる、女らしさへの道。

三番目の発達経路が、父親を対象とする女の子のエディプスコンプレクスである。一応これが正常とされるのだが、いろいろなバリエーションがありえる。
性からの離反や男らしさへの固執で終わってしまう例も多いし、それが異常であるともいえない。

また、エディプスコンプレクスまで到達しても、男の子と違ってそれをを克服する契機が少ないので、父親への感情的拘束のところで留まってしまう女性も多い。
いわゆる「ファザコン」というやつだ。フロイトの表現ではないけれど。

いずれにせよ、女の子にとって決定的に重要なのはエディプス期以前の時期における母親との関係なのであって、その後の関係においても常に根っこにはそれがある。
フロイトはわかりやすい例として、父親を模範とするようなタイプの女性の結婚について述べている。

たとえばわれわれが以前から気づいていたことだが、父親を模範として夫を選択したり、あるいは夫を父親代わりにする女性の多くは、結婚生活で夫を相手に自分の母親との悪い関係を反復している。(20-222)



エディプス期以前の時期における女の子と母親の関係は、とてもむずかしい。
女の子の去勢コンプレクスは、ペニスを与えてくれなかった母への不満と敵意、という形をとりがちである。
この不満の前提には、そもそも子供が親に対して抱く欲望の強さということがある。

子供のリビードはこれほどにも強欲なのだ。精神分析が母親からの離反に関して暴露してくる動機には、母が女の子に文句なしにまともな性器を持たせてくれるのを怠ったとか、母が十分な期間、母乳で養ってくれはしなかった、母の愛を誰かと分かち合うように強いた、母は愛の期待のすべてを満たしてくれることはついぞなかった、そしてしまいには、母が自分に性的活動をまず目覚めさせておきながら、後になってそれを禁じた、といった言い分があるが、こうした一連の動機付けをすべて概観しても、いずれも最終的な敵意を正当化するには不十分であると思われる。(20-227)



もちろん女の子が母親を憎んでばかりいるわけではない。強く愛しているからこそ不満と敵意も高まるという、両価的な感情を向けているわけである。

愛情生活の最初期の段階では両価性があきらかにごく普通にみられる。(20-227)



ところでこういったこと、母親に両価的な感情を抱いて格闘するというのは、男の子でもあり得るのではないか。
そのとおりで、男の子にとってもエディプス期以前の時期はむずかしく、かつ重要である。

ただ男の子では、憎しみを父親に向けることでエディプス期に移行し、母との良い関係は当面温存されることになる。
問題を先送りしたわけで、エディプスコンプレクスの克服という重要な課題の背後には、以前に母親との関係で生じた葛藤が潜んでいる。
例えば父への攻撃性や、その見返りとして懲罰されることへの不安は、元来母親に向けられていたものなのだ。

女性の場合には、最初の母子関係が生涯にわたる対人葛藤のテーマとなっていることが、比較的見えやすいともいえるだろう。

男らしさと女らしさの両性性、愛と憎しみの両価性という2つの対比に加え、ここで受動性と能動性という観点が導入される。

性の領域に限らず心的な体験のどの領域でも、受動的に得られる印象が子供の中に能動的な反応への傾向を呼び起こすのは容易に観察される。(20-229)



子供にとっての最初の体験は、母親に哺乳されたり、排泄の世話をされたりするという受動的なものである。
子供はこれを性的体験としてとらえ、それを楽しんだりもする。

一方で子供は、それらの体験を能動的に、自らが主体となって再現しようとしたがる。
典型例が、子供の遊びである。
お医者さんごっこにみるように、不快な体験すら遊びのモデルとなる。いやむしろ、不快な体験こそ遊びによってそれを止揚する必要があるともいえる。

女の子が好むのは人形を使ったままごと遊びである。
そこには、母との体験を能動的に再現しようという意図があり、またその関係の排他性、父親すら入り込む余地のない間柄であることを表現するものでもあるという。

遊びの領域における能動性は間接的なものだが、もっと直接に女の子が自らの能動性と攻撃性を母親に向けるということがある。

女の子に見られる意外な性的能動性は母親を得ようとする追及として現れるが、時期的な順序としては、まず口唇的、次いでサディズム的、そして最終的にファルス的でさえある追及というかたちで出てくる。(20-230)



母親を得ようとする、とはおこがましいが、子供にとっては本気である。
よく、「食べちゃいたいほど可愛い」などと言うが、子供の方でも母親を食べちゃいたいと思っているのである。
そういった感情は早期に抑圧され、母親に殺されるのではないかという不安になってあらわれる。

ファルス期以降においては、母との一対一の関係が明瞭になってくる。
女の子は、母親が自分を性的に誘惑したといって責める。
クリトリスによるマスターベーションでは、母親のことが空想される。
下の子の誕生に際しては、自分が子供を作ってやったという解釈がなされるが、これは男の子と共通の反応である。

女の子はその時々、いろいろなかたちで母親に挑んでくるわけだが、結果としては、相手がとてもかなわない圧倒的な存在であることを身に染みて知らされざるを得ず、最終的に離れていくことになる。

母親からの離反は、女の子の発達の行程において極めて重要な一歩であり、単に対象の変更に尽きるものではない。その経緯についても、またその動機を説明すると称して積み重ねられてきた数多くの説明の試みについても、われわれはすでに述べたが、今それらに加えてもうひとつ、母親からの離反と手を携えて、能動的な性的蠢きの著しい低下と受動的な性的蠢きの高まりとが観られることを指摘しておこう。(20-232)



母親から離れた女の子は父親へと向かう。
しかしこの対象の変更はそう簡単ではなく、さまざまな奮闘や紆余曲折の後にようやくなされたり、最終的にうまくいかなかったりすることもある。
つまるところ女の子にとって父親というのは、離れざるを得なかった母親の代理に過ぎないということなのかもしれない。

母親からの離反と並行し、能動的な性的蠢きの低下と受動的な性的蠢きの高まりがおこる。
この過程を導いていく要因としては、何らかの生物学的な過程が想定されている。

2015.7.29

テーマ:書評 - ジャンル:本・雑誌

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