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2018-08

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世界陸上

IAAF世界陸上2007大阪が大阪で開かれている。

もともと陸上競技に特に興味があるわけでもなく、テレビで競技を熱心に見ているわけでもないのだが。
たまたま食事をした大阪中心部のホテルでは、ロビーに選手や監督やスタッフなどの関係者と思われる方々があふれており、さながら選手村のような様相を呈していた。
食事中に窓の外を見れば、ホテルの周囲を多くの選手(ではない人もいるかもしれないが、ともかく外国人のアスリートらしき人々)がジョギングしている。これも練習の一部なのだろうか。都会の、多くの車が行きかう横で走っているのだから、大変だ。
あまり興味はなかったが、これらの姿を見てちょっと身近な感じがしてうれしかった。

地下鉄の車内広告でも、世界陸上のこと大きく宣伝している。ただ、日本選手の写真ばかりで構成されていて、あんまり「世界陸上」っていう感じではないのだな。もっと、「海外からこんなすごい選手が来て開かれる世界的な大会ですよ」というポスターにした方が宣伝効果も上がるんじゃないかと思うのだが、どうだろうか。日本選手を応援するのもわかるのだが。

綺麗・不気味

ブログのデザインを変えてみた。
ブログのデザインというのは、各ブログサービスでたくさんのテンプレートの中から簡単に選べるようになっている。もちろん、自分で作ることも出来るようなのだがかなりの知識と根気がいることだろう。

これまでも、いろいろ変えてきたが、今回のデザインは新着のもので、夜空の星をデザインしたもの。幻想的で美しい。製作者は、atusumuさんという方で、ブログを拝見したらこういうテンプレートをたくさん手がけておられるようだ。ありがたく、使わせていただきます。

綺麗なので、星空をボーっと眺めていると、真ん中へんのもやもやした不規則な模様が、いろいろな絵柄に見えてくる。首を横に傾けた人の顔のようにも見えて、ちょっと不気味でもあるかな。


「読む2.0」の方もデザインを変えてみた。こちらは、旅行会社の提供するタヒチの写真をモチーフにしたもの。バカンスの季節は過ぎたが、これも気持ちのよいデザイン。あー、休みとってこんなところに行きたいなあ。


各ブログの更新が滞っているのにもかかわらず、Yahoo!ジオログというのを新たにオープンした。アバターというのを作ってみたかったというだけ。ブログとは違うせいか、デザインのテンプレートの種類が少ない。

あれやこれや

メインのブログの方は、22巻が終わりの方で短い文章の連続。ブログとしては、一つの記事書いて一つのデータベース作っての繰り返しとなり、少々退屈なサイクルに入った。

どんどん読み進めて貯金をためたらいいのだが、それもできずにさぼっている。まだ18巻には手をつけてません。


本日は、Yahoo!でアバターを作って、それでジオログというのを開設してと、遊んでいた。このジオログというのが、ブログとどう違うのかよくわからないのだが。

Yahoo!は、すでにIDがあるので、ボタン一発で簡単にいろいろ開設できてしまうので気をつけねば。Yahoo!ブログのボタンももう少しで押すところだったよ。


本ブログのデザインも変えてみた。夏を懐かしみつつ、南国タヒチの風景。

綺麗な風景だが、文字は明るすぎて読みにくいかな。


フロイト研究会のトップページのアマゾン窓で、中山元訳で光文社古典新訳文庫の「幻想の未来/文化への不満」を発見。アマゾンで注文。

自動的にフロイト関係の本を表示してくれるので、こうやって自分で新刊を見つけることもある。

フロイト関係の出版は、なんだか活気が出てきたな。

フロイトの精神病論

セーイチさんのブログ「発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版」の記事「S.フロイトの1913年に発表された論文「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」について。 」を読んでのトラックバック


フロイトの精神病論というのは、実にすばらしい。何がすばらしいかといえば、動機に注目し、動機を根本的な要因と考えることである。これは、フロイト理論の基本的な考え方でもあるのだ。動機とは、もちろん欲動でありリビードである。


われわれにとって、人格とか自我というものの統合は自明のことだから、それが崩壊するのを見ると、そこに構造上の脆弱性といったものを仮定したくなるものなのだ。多くの精神病理論はこういう立場にたっていると思われる。


しかし、フロイトは、もともと自我というものは脆弱であり、ちっとも統合されていないのが当たり前の状態である、と考える。自我の統合は、ある動機によって、一生懸命努力してようやく維持されるものなのである。


そして、その動機がナルシシズムである。それも、二次ナルシシズムである。つまり、他人を好きになるようなやり方で自分を好きになることである。


フロイトの考えるリビードの発展の第一段階は、一次ナルシシズムで、これはまだ対象も知らずに自らを誇大的なものと思っている段階である。この幻想は現実からの刺激によって破られ、自己の寄る辺なさに気づいて、こんどは対象(他人)に惚れ込む段階がある。その段階を経て、もう一度、対象を取り込み、対象と同一化した自我を愛するのが、二次ナルシシズムである。
だから、対象をちゃんと愛せなければ、当然二次ナルシシズムも不安定になり、自我の統合も脆弱になる、というわけだ。


さらに、対象愛にも二段階あって、第一段階が同性愛的対象選択。第二段階が異性愛的対象選択。同性愛的対象選択が先に来るというのがちょっと理解しにくいが、前思春期の子供が、やたらと同性同士でべたべたする状態を思い浮かべるとよいだろう。これが、成熟したナルシシズムの発達とその結果としての自我の統合にとって、大変重要なのだ。


統合失調症の人というのは、この段階をうまく通過できなかったので、同性愛的欲求をうまく処理できない。そのような衝動の蠢きを内に感じると、これを危険なものとして、強く否定しようとする。その防衛的努力として、フロイトは妄想を理解しようとした。

ブログ名変更しました!

ブログ名を変更しました。


旧「重元寛人『フロイト全集』を読む2.0」

新「重元寛人の徒然なるままにフロイト」


もともと「重元寛人『フロイト全集』を読む」 というブログがあって、その引越しのために立ち上げたブログであった。

しかし、元のブログをそのまま継続することになり、こちらも趣旨を変更して続けていくことにしたのであった。

名前が紛らわしいと思っていたので本日より変更しました。これからもみなさまよろしく。


ブログ名にあまりこだわりはないので、てきとうな名前だが、題名だけみて内容がわかるようにとは心がけている。

「徒然」というのは、ブログ名としてはとっても多いんですよね。

フロイト殺し

フロイト思想研究会 第一回大会 というのに行って来た。


大会会長は新宮一成氏で、フロイトの思想を軸に多方面からの研究をめざすという趣旨の会のようだ。
参加資格は特になく、1000円の参加費を払えば誰でも参加できる。


用意された会場がいっぱいになって椅子を持ち込む程の盛況であった。
たまたま前の方の席だったので、有名な先生方の顔を間近に見ることができたな。


講演、一般演題、シンポジウムと内容は多岐にわたったが、ラカンの話がけっこう多くて、そこの部分はほとんどわからなかった。


エディプスコンプレクスについての会長講演を受けて、特別講演の坂部恵氏が「私は今から『フロイト殺し』をする」と言ったのが印象的であった。


これは私が常々思っていたことであるのだが、フロイトについての解説や研究書の類を読むと、フロイト自身の著作との間にどうもギャップを感じることが多いのだ。
ひとつには、フロイトの思考が多岐にわたり複雑なために、うまくまとめて解説できないということもあるだろう。
しかし、明らかにそうではないものもある。
特に哲学系の研究に多いのだが、フロイトを語るのにフロイトが用いなかった言葉をやたらと使うというもの。


フロイトのすばらしさというのは、そのモデルであり、概念である。
それらによって、心の多岐にわたる現象がかなりうまく説明できるし、さらに難しい問題を考えるのに役に立つ。

それなのに、そのフロイトの思想を論じるのに、また別の言葉を持ってくるというのは、モデルが不完全であるといっているに等しいではないか。
もちろん、フロイト理論といえども完全ではないから、さらに新しい概念の導入が必要なこともあるかもしれないが。


こういうフロイト理論に新たな概念を付け加えて発展させようという試みは、実は偉大なる父フロイトに対する反発の試みなのではないかとも見えてしまう。
父を否定し父に取って代わりたいという息子の欲望。まさに、エディプス的な状況ですね。
ある意味、あからさまな反フロイトよりもたちが悪いかもしれないな。


ちょっと批判めいたことになったが、興味深い演題も多く、いろいろ勉強させていただいた。


そして、なによりよかったのは、懇親会。


フロイト全集の訳者の面々とか、いろいろ有名な先生が参加されていたので、思い切って声をかけ、いろいろなお話を直接うかがえたのであった。


また、岩波書店の編集者の方も見えていて、フロイト全集の進捗状況などについても聞くことができた。


大会は年一回の予定とのこと。是非また来年も参加してみたい。

嗅覚から視覚へ

フロイト思想研究会の記事の続き。


懇親会では、いろいろな方々と楽しい対話ができた。
私も調子に乗って話したのであるが、その中でフロイトのある言説をひいて次のようなことを述べた。


人間の思考においては、言語ということが重要であるが、その前段階には視覚的なイメージによる思考というものがある。
しかし、視覚を重要視するというのもまた人間に独特のことであって、他の動物や人間の遠い祖先においては、視覚よりももっと嗅覚の比重が大きかったのである。
その変化の契機となったのは人間が四脚歩行から二足歩行になったことである。
われわれが視覚を重視し、空間を投影的にとらえるということは、そのような発展の結果なのである。


これは、フロイトの言説そのものというよりは、かなり私自身の脚色が入っているのだが、ともかくその話の相手をしていた方は興味をもたれたようで「それはどこの論文ですか」と尋ねてきたのだった。


その場でさっと答えられれたらかっこよかったのだが、どうも思い出せない。
「アイデアとしてはフリースの影響でしょう。どこかの論文の脚注だったの思うのだけど思い出せません。」
と、その場は終わった。


どうもくやしくて、帰り道すがら考えてみると、内容の性質からいって「文化への不満」あたりではないかという気がしてきた。
たまたま最近出た光文社古典新訳文庫の「幻想と未来/文化への不満」(中山元訳)を携えていたので、帰りの電車の中で調べてみたら、やはりそのとおりだった。


第4節につけられた脚注14(上記文庫では197ページ~200ページ)にそのような内容の記載があった。あらためて読んで見ると、私の述べたのとはだいぶ違っているところもあったが。


あの時対話をしていた方とはちょっと連絡がとれないので残念だったが、万一このブログを見ることがあれば、そういうことでしたよ。


それにしても、なんでその場ですっと出てこなかったのか。失錯行為的な意味合いもあるのか。
よくわからないが、「調子に乗るなよ」ということかな。

ケーブルテレビの予約

ケーブルテレビの番組を予約録画するのは意外にめんどうくさい。いや、簡単にできるようにするのがけっこうめんどうくさい。
Irケーブルなるものを用いてセッティングすると、ケーブルテレビのセットアップボックスとビデオが連動して簡単に予約ができるようになるのだが、そのセッティングの仕方がなかなかわからずに苦労した。

というわけで、次回のために(一度セッティングしたので次回はないかもしれないが)と、同じような状況で悩んでいる方の参考のために、やり方をメモしておく。

うちで使っているのは、ケーブルウェストのセットアップボックス、松下のTZ-DCH1000である。
録画の相性がよいように、DVDレコーダーも松下を選んで、DMR-EH75Vである。
これ以外の組み合わせでも、両方の機器がIrケーブルに対応していれば、以下のやり方は参考になるかもしれない。

まず、必要なものはIrケーブル。これは、セットアップボックスの付属品としてついてきたようなのだが、なくしてしまった。ついでに、取扱説明書もなくしてしまった。(すべての取扱説明は、ネットでダウンロードできるようにしてほしいな。)
そんなわけで、Ir接続したら便利だろうなと思いつつ、接続もせずに月日がたっていったのであった。

ケーブルはケーブルTV会社に問い合わせたら手に入ったかもしれないが、私はネットで購入した。アサヒデンキというところで483円。
http://item.rakuten.co.jp/satellite/c/0000000103/

早速ケーブルを接続。セットアップボックスの背後にある端子にケーブルをつなぎ、赤外線発信部をデッキ側の受信部近くにはりつける。

これでOKかと思って、予約操作をしてみたがどうもうまくいかない。
実は、セットアップボックス側の設定をする必要があったのだ。

セットアップボックスのリモコンの「番組ナビ」というボタンを押し、画面を見ながら「初期設定」→「接続機器関連設定」→「Irシステム関連」とメニューを選ぶ。

Irシステム → オン
メーカー → 松下
リモコン → DVDレコーダー1
外部入力 → 外部入力1
と設定。(もちろんデッキのメーカーや機種によって異なるでしょう)

これでOK。セットアップボックス側の操作だけで、レコーダの連動予約録画ができるようになった。

なんということもないのだが、説明書とかにも意外にあっさりとしか書いていないので、ここにたどり着くまでにけっこう苦労した。

元気のない理由

たいして記事もないのに、3つものブログを作ってもてあましている今日この頃。とくに、ここのブログが元気がない。

メインのブログ「重元寛人『フロイト全集』を読む」をはじめた頃は、けっこう雑談を書いていたものだが。雑談を書くブログを分離したら、あまり書かなくなってしまった。なぜだろう。

ひととおり書いて、ネタがつきてきたというのもある。(もともと少ないネタだったんだな。)

それなりに思いつくことはあるのだが、記事を書く面倒くささを乗り越えるだけの意欲がわかないというのもある。(「毎日更新」といったことで自分をしばるのも大事なことだったのかも。「読む」の方を毎日書いているので、こちらも毎日というのは無理な話だが。)

いろいろなことをフロイトに関連づけて書けちゃうので、こっちで書くものが少なくなってしまうのもある。

最近はフロイト以外の読書が滞りがちであるということもある。(「アンナ・カレーニナ」は現在下巻です。)

「園芸」というカテゴリを作って、トマトやナスを家庭菜園で作ったり、ひまわりの花がさいて種を収穫したり、サツマイモも育っているようだったり、秋ジャガイモを植えつけたりして、その様子をデジカメで撮ったりもしているが、ブログのデザインを宇宙的なものにしたので、家庭菜園の写真や記事となじみにくいというのもある。(ちょっとこじつけ。ようするにやる気がない。)

記事が少ないから仕方ないが、カウンターの伸びは超低レベルで、ますますやる気をなくしてしまうというのもある。(それにしても伸びない。アメブロの方はもっと反応よいのに。アクセス解析もどれだけ実態を反映しているかあやしいものだが、それでも記事が出たとたんにアクセス数が増えたりするとその気になるものだ。)

なんだか愚痴っぽくなったのでこのくらいでやめとこう。はりきりすぎず、マイペースで更新していきますので、今後もよろしく。

父親賛歌!

セーイチさんのブログ「発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版」の記事「強迫神経症の一症例に関する考察 」へのトラックバック記事。
そして「全集を読む」の7月27日の記事の再掲。

われわれは、つぎのような言葉でもって歩み始めるべきだったのかもしれない、そもそも幼年時代に父以外の誰が「偉大なる男」でありえたのか!(S・フロイト「モーセという男と一神教」より)

 フロイトは、個人の心理学においても、歴史分析においても、父の重要性を強調したことで知られている。このことから、ともすると彼が母の存在や母子関係を軽視したと捉えられることもある。
 フロイトの父親重視は、彼自身の生い立ちによるのではないかとか、いや彼自身の母子関係の重要性に気づいていなかったのではないかと、憶測する向きもある。
 もちろんフロイトといえども自らの個人的コンプレクスから完全に解放されていたわけではないだろうから、上記のような分析もあながち見当はずれというわけではないだろう。しかし、そのような視点だけで彼の理論を片付けてしまうのは残念なことだ。

 母子関係が重要であることはもちろんである。母は多くの場合子供にとって現実的にもっとも重要であり、なくてはならない存在だ。このことは、わざわざ強調しないでも皆が実感していることである。また、母子関係の重要性は、人間だけでなく他の霊長類でも同様だし、すべての哺乳類に共通の事情であろう。

 これに対して、父の重要さは人類と他の動物を区別する特徴として、特筆されるべきものである。それは母との関係に対立するものとして、歴史においても、個人の発達においても、精神性の飛躍にとって重要な転機となった。


追記(H19.9.29 セーイチさんのブログへのコメントより)


母親っていうのは、男の子にとっても女の子にとっても最初の対象であり、というより最初は対象ですらなく自分の一部のように思える存在なわけです。対象としての母親は目にも見え手にも触れる実体的な存在であり、そこには子供の直接的な欲望が向けられます。ところが、いろいろ事情があって子供は母子関係に安住できなくなり、父親という、遠くて抽象的な対象に向かわざるをえなくなる。それは、子供の心に取り込まれ、超自我としてがっしり根を下ろして、自我に厳しい圧迫を加えてくるのですが、それと同時に自我は超自我に愛されることを無上の喜びと感じ、すすんで超自我に気に入られるような振舞いをしようとするわけですね。
というようなことをフロイトは述べているのだと思います。


強迫というのは、病的なものであってもなくても、人間に普遍的にある性質なのでしょう。それは、自我の超自我への怖れとマゾヒスティックな愛情のあらわれなのだと思います。

いまどきの運動会

この週末(9月29日と30日)は、全国的に小学校の運動会のピークだったようだ。
かつては運動会というと体育の日(かつては10月10日)が定番だったが、最近は9月の最終土日が定番のよう。
そんなわけで、某公立小学校の運動会を視察してきた。

これは、一般的なことなのか、その小学校の特徴なのかわからないが、「地味だー」というのが感想。
一緒に視察した私よりさらに一世代上の方も同じような感想だったから、運動会は昔に比べてかなり地味になっているのかもしれない。

運動会につきものだった万国旗もなく、その他の飾りつけもほとんどない。
行進や競技中やダンスの音楽もゆったりまったり。
全体に競争の要素が薄れていて、みんなお行儀よくがんばっている。

どうしてこんなことになったのか。なんだか、いろいろなものに気を使った結果のようにも見える。以下は私の勝手な想像。

周辺住民に気を使って、音を小さく音楽もゆったりまったり。朝の花火もなかったな。
負けた子がかわいそうという声に気を使って、一等賞にも賞品を出さない。競走をあおらない。
怪我をしたら大変という声に気を使って、荒っぽい競技は廃止。昔は、棒倒しとか迫力あったけどな。
男女平等を求める声に気を使って、男女が一緒にかけっこをする。男女別の競技はない。かつて組み体操は男子の種目で、高学年女子は女性的なダンスをやっていた。
親が見に来れない子に気を使って、父兄席もしつらえてなく、子供が家族と一緒に弁当を食べるということもない。
日の丸に嫌悪感をもよおす人(主に教師?)に気を使って、国旗掲揚も君が代斉唱もなし。その延長として万国旗もなくなったのか。
ロリコン趣味の危険な視線に気を使って、ブルマー廃止で男女共通の体操服。
校長の話も、児童や父兄に気を使っている。児童はみんなリラックスというかゆるゆるというか。昔はもっと緊張していたものだが。

これも時代の流れでしかたがないのかもしれない。当の子供たちはけっこう楽しんでいるようだったし。
昔は他にイベントが少なかったから、運動会には子供も親も気合の入れ方が違っていたんだろうね。

その日暮らしに逆戻り

フロイト読解の方は、「自我とエス」に入ってから充実はしているものの、進行もゆっくりになっている。

書き溜めた記事も底をついて、いつしかその日暮らしの生活に戻っているのであった。


おまけに明日から出張で地元を離れるのであるが、宿泊先のホテルにノートパソコンを持ち込めばネットにつながるようなので、それをあてにして今回はタイマーで公開ということもしません。


よいのか悪いのか。まあ緊張感はあるな。


それと、申し遅れましたが、またブログ名を変更しました。

旧:「重元寛人の徒然なるままにフロイト」

新:「徒然なるままにフロイト」

深い意味はなく、デザインを秋らしいものに変えたら題名が二行に表示されるようになってしまったので、短くしてみたということ。

今後ともよろしく。最近ランキングがまた伸びてきたので少しはりきってます。

「自我とエス」読了

重要な著作なので時間をかけてしまったが、ようやく読了。

ブログの記事もこれまでより硬めだったと思う。

自分向けのサマリー的になったため。


これまでに何度も読んだ著作だったので、大体の内容は理解しているつもりだったが、いろいろな発見があり、かなり新鮮に読めた。

このようなことだと、フロイト全集全巻制覇した時には、最初の方に読んだ著作はまた新鮮に感じられるということにもなりそうだ。そして、一生読み続けると。


次は「みずからを語る」。少し気楽にいこうかな。

フロイト全集第九巻到着

フロイト全集の第6回配本である第九巻が岩波書店から届いた。

「グラディーヴァ論」と「精神分析について」を中心に1906年から1909年の論文で構成されている。

うーむ早く読みたいところだが、現在読解中の第18巻がまだまだかかりそうだ。

少し先を急ごう。


そして、次の第7回配本は‥‥

第八巻「機知」でした。

いや、これもなかなかおもしろいですね。

しかし、「二〇〇八年二月の刊行を予定し、作業を進めております」とある。

また、配本の間隔が伸びて3ヶ月以上になっているし、微妙な表現だな。

トルストイ「アンナ・カレーニナ」

アンナ・カレーニナ (上巻) アンナ・カレーニナ (上巻)
トルストイ、木村 浩 他 (1972/02)
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★★★★☆

 「戦争と平和」は、相当気合を入れて読まななければならない作品だった。つづく「アンナ・カレーニナ」も大作であるが、こちらの方がずっと読みやすい。ストーリーは、情熱的なアンナをめぐる恋愛劇と、実直な農場経営をする少々風変わりな男リョーヴィンにまつわる話とが平行して展開する。この技法がなかなかよい効果をあげている。2つの話の接点もあり共通の登場人物もいるけれども、別々の小説にしようと思えばできたであろう。しかし、対照的な話を交互に読み進むことでおもしろさ倍増というか、あきがこないというか。特にアンナの方の話はかなりどろどろしているので、これだけ読んだら少々しんどいかもしれず、リョーヴィンの誠実な話がくるとほっとする。
 トルストイの描く恋愛の愛憎劇というものは、現代のわれわれが読んでも迫真のリアリティーをもって迫ってくる。その苦悩と、キリスト教的な悟りの境地といったものが本小説を貫くテーマになっているようだ。

 つづいては、大作の最後を飾る「復活」を読み始めている。年末までに読み終われば、私の読書にとって今年はトルストイの年ということできれいにおさまるかな。

いまどきのビデオカメラ選び

突然、数年来使用していたビデオカメラが壊れた。何もなしに壊れることもないだろうから、たぶんどこかで何か衝撃が加わるようなことがあったのだろう。液晶画面がぐちゃぐちゃで映らない。
対面式でファインダーがないタイプのものだったので、液晶がだめになるとちょっと使えない。(ちなみに、このタイプはけっこう使い勝手がよいと思っていたけど今ではなくなってしまったな。)
修理に出してもどうせ高くつくだろうから、あきらめて次のカメラ選びをすることにした。

幸い、壊れたカメラも液晶以外の部分は機能しているようで、テレビやパソコンにつなげば再生したり動画を取り込んだりすることはできる。新しく購入するカメラは、互換性を考えずに自由に選ぶことができるのだ。

早速ネットで調べたり、家電店で各社のカタログを集めたりして検討した。

で、わかったことは、現在ビデオカメラは大きな過渡期にあるということ。これまで標準だったミニDVから、次世代のカメラに移ろうとしている。しかも、標準の形式がまだ定まっていないようで、各社からいろんなタイプのものが発売されて大変ややこしいことになっているようだ。

まず、画像フォーマットがこれまでの標準的テレビ仕様かハイビジョン対応かで大きく分かれる。ハイビジョンについては、各社とも「フルハイビジョン」というのを歌っているが、フルでないハイビジョンというのもあったのか。最新のカタログには載っていないようだ。

そして記録媒体が、従来のminiDVに加えて、DVDディスク、ハードディスク、メモリーカードおよび、それらのハイブリッドがある。ハイビジョン方式のDVDには、ブルーレイとAVCHDとがある。メモリーカードには、SDとメモリースティックがある。

というわけで、これらの組み合わせは膨大な数になり、一つのメーカーですべての機種をそろえているわけではない。各社とも、様子をうかがいながら自社で力を入れている製品をアピールしているようだ。

こういう状況というのは、AV機器好きの者にとってはたまらなく面白いだろうが、たまたまこの時期に買い換える一般的消費者にとっては悩ましいことだ。
方針を決めずに下手に電気店の店員にでも相談すれば、最新式の高いやつを買わされて、使いこなせないうちに世の中の標準が移り変わってしまうなどということにもなりそうだ。

私の場合で考えると、まずさほど熱心にビデオを撮影する方ではない。年に数回といったところだ。最近はデジカメの動画がけっこうよく撮れて手軽なので、ますますビデオの登場回数が少なくなっている。
それでも、数年前の記録を久しぶりに見てみると面白く、やはりビデオカメラは持っておきたいなというところ。
それから、自宅のテレビはまだ従来形式でハイビジョンではない。だからハイビジョンのビデオカメラを購入しても、その画像をフルに堪能することはできないのだ。そもそもホームビデオ用途にハイビジョンまで必要かという気もしないではない。
それから、パソコンとの連携ということを考えても、現在使用しているマシンは従来画質のビデオであればストレス無く扱えるレベルであるが、ハイビジョンのビデオカメラで撮った画像を編集したりするのはおそらく困難であろう。

というわけで、今回はハイビジョンは見送り、我が家のハイビジョン環境が整いパソコンもグレードアップしてから(3年後くらいかな)再度買い換える方が、結局出費も少なく世の中の大勢からもはずれずに済むのではないか、と思うようになった。

従来画質の機種では、miniDV、DVD、ハードディスクの三種類から選ぶことになる。

ハードディスクタイプはコンパクトだし、8時間くらいまで撮りだめられるようなので、もしかしたら次の買い替えまですべての撮影画像をカメラ内にとどめたままでいけるかもしれないくらいだ。大いに食指を動かされるのであるが、ひとつ気になるのはハードディスクの信頼性。パソコンでも何年も使っていると突然ハードディスクが壊れることがある。バックアップをとらずに撮りためた映像が、一瞬にしておじゃんになるといったことがおこるんじゃないかという不安がある。

DVDは今あるDVDレコーダーでも扱えるし、パソコンとの相性もよく、本体が壊れた後でも残った画像は問題なく視聴や利用ができそうなので安心だ。しかし、ディスクという形態から、どうしてもビデオカメラの大きさが一定以上にはコンパクトにならないという欠点がある。

いろいろ考えた挙句、ここは成熟しきったこれまでどおりのminiDV方式の機種を選ぶのが、安心で安全であろうかという結論に達しつつあるのであった。まだ使っていないテープも有効に活用できるしね。

ところが、そう思ってもう一度カタログを眺めると、長年にわたって標準であったminiDV方式のビデオカメラは急速に世の中から姿を消そうとしていることがわかった。
各社とも次の標準に目が向いていて、カタログの後ろの方にひっそりと載っているだけだ。というか、すでにカタログから姿を消しているメーカーも多い。miniDV買うなら急がなくては。

現時点で、miniDVのホームビデオを新製品カタログに掲載しているのは、ビクター(GR-D750他)、パナソニック(NV-GS320)、ソニー(DCR-HC48)の3社である。

大きさ、機能、値段など総合すると、ソニーかな。
ちなみに、ソニーは唯一hi8というさらに旧式の機種をカタログに掲載しており、古い形式のフォローもしている点にも好感がもてる。

祝一周年

ブログ「重元寛人「フロイト全集」を読む」をはじめて、本日でちょうど一年となる。

一年か。早いものだな。


「自分がフロイト全集を読むためのはげみにする」というのが、当初からのコンセプトであった。
今では、そのコンセプトをかなり純粋な形で実行しているブログになっている。


もちろん読者のことは意識しているし、なるべくうまく言語表現することもめざしている。
フロイトに興味をもつ人の検索にヒットするような努力もしている。
貴重なコメントもいろいろいただき、それをきっかけにはじまったネットでの交流もある。


しかしながら、こうしてここまで続けてこれたのは、「フロイト全集を読む」という目的があってそれを実行してきたからだろう。
この一年で、そのためのスタイルはおおむね定まったように思う。


最初の頃は、フロイトに関係ない記事もたくさん書いていた。そっちの方が多い時期もあった。時々ふりかえって、当時の記事を読んでみるのだが、われながらけっこうおもしろい。
それに比べると、最近の記事はつまらないだろうと思う。


途中からコンセプトごとにブログを分離したのだが、趣味のことを書く「重元寛人のブログ」の方には、あまり記事を書けていない。
なんだろうね。つれづれなることを書き続けるというのは、意外にむずかしいものだ。


今のペースでいくと、あと5年ほどでフロイト全集を制覇できそうだ。
その時はどうなっているか、楽しみにしつつ、これからもコツコツと続けていきたい。
みなさまも、末永くよろしくお願いいたします。

いまどきのビデオカメラ選び2

Handycam デジタルビデオカメラレコーダー DCR-HC48 Handycam デジタルビデオカメラレコーダー DCR-HC48
(2007/02/10)
ソニー
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前記事のつづき。
結局、ソニーのDCR-HC48にした。
まだ使い始めたところなので、詳しいことはこれからだけれど、なかなかよさそうである。

前記事でも述べたように、ソニーのカタログでは唯一の、従来画質のminiDV機種である(プロ用は除く)。
Hi8の機種も販売されているので、おそらく今後もこの一機種だけは残されていくのであろう。
これまで発展と熟成を遂げてきたminiDV機の、よいところをバランスよく取り入れた一台という感じだ。
とくにとびぬけた特徴もないが、よくできている。
わりと小型ではあるが、ウォークマンで伝統の極限までの小型化というのでなく、それが却って扱いやすい。グリップ部に丸みをおびた形は握りやすく、バッグにもすっとおさまって、見た目以上に携帯性がよい。
カールツァイス性のレンズで、性能はともかく外見的にかっこいい。金属部分がかっちりできていて、程よい高級感がある。
ひととおり使ってみたが、わかりやすく操作性はよい。
欲を言えば、デジカメとしての性能が100万画素というのがやや中途半端というか。300万画素くらいだと、この一台だけでなんでも済ませられるところだったかなと。あと、メモリースティックがSDだったらより便利であったかと。これはソニーだから仕方がないか。

ところで、このビデオは、画面を従来の4×3とワイド画面に切り替えられるようになっている。ワイドといってももちろんハイビジョンではないのだが。
私はこれまでに慣れた4×3で使っている。自宅のテレビが4×3だし。

テレビ画面はワイドが標準になりつつあるが、私は4×3の方がいろいろの点でよかったと思う。
これはハイビジョンを出すときに、従来のものとの分かりやすい違いを強調するためだったのではないか。
「横長」というけれども、実は「縦低」でもあるのだ。

以前に某社がワイドに撮れるデジカメというのを宣伝するのに、人が横に並んで写った写真を使って「これまで写らなかった端の人まで写ります」とやっていた。
しかし、同じ広角レンズを使えば、横も縦も広く写るカメラを作ることもできるはずなのだ。
つまり、これは上下をわざわざ狭くしか撮影できないようにしているデジカメであった。

テレビ画面に関しては、置き場所ということがある。
価格とかは無視して、狭い場所にできるだけ大画面のテレビを置きたいと考えると、4×3の方が有利である。
大画面のハイビジョンテレビを置ける場所には、同じ幅で4×3のテレビが置ける場合が多いであろう。
正方形くらいでもよいかもしれない。ただ、それだと見た目的に落ち着きが悪そうだ。

そんなこんなで、しばらくは4×3のテレビとビデオを使いつづけていくつもりであった。

クリスマスのデザイン

ブログのデザインを変更しました。

クリスマス仕様で。


フロイト読解の進行状況。

現在は、一記事ずつ書く小文の連続のサイクルにはいっている。

この後は「マゾヒズムの経済的問題」や「不思議のメモ帳」など、小粒だが重要で難解な論文があり、それを超えると間もなく18巻を終了する。

今年中には、次の九巻に入れるかな。

STAR WARS

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ジョン・ウィリアムズ、サントラ 他

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注)先着購入特典の「シリーズ全6作 実物大チラシBOOK(豪華34P)」は、下記のSony Music Shopから購入の先着の方にプレゼントとのことですので、アマゾンからの予約ではもらえません。

http://www.sonymusicshop.jp/detail.asp?goods=SICC000000803

なにを隠そう、けっこうなスターウォーズのファンである。
まあ、こういったことには熱狂的な人がいくらでもいるので、誰にも負けないという程ではないのだが。
新旧シリーズの映画を劇場で見た回数を合計すると、たぶん16回(スターウォーズ4回、帝国の逆襲3回、ジェダイの復讐3回、ファントム・メナス2回、クローンの攻撃2回、シスの復讐2回)だったと思う。
各作品のレーザーディスクやDVDやサントラもだいたいそろえている。
しかし、新シリーズも終わり、私の中でもブームは去ったと思っていた。

のであるが、この時期に旧シリーズのサントラのボックスの発売予告。
公開30周年だそうで。
中学生の時に、何の予備知識もなく、あの冒頭のシーンを劇場で見れたのはしあわせなことであったが、それも30年も前のことか。

三作品分のサントラが15000円とは、結構なお値段。
デジタル・リマスタリングなど、今回のみの特徴はあるものの、基本的にはすでに持っているCDと同じ内容だ。
ほとんど、特典の付録を買うようなものである。
いろいろついているが、「30周年記念ロゴ入り完全限定R2-D2 型スピーカー2体」というのに、やはり心惹かれる。
ずいぶん迷ったが、結局予約してしまった。メーカーの思惑にまんまとのっかってしまったのは実にくやしいが。
発売は来年の1月16日。決めてしまったので、あとは楽しみに待つとするか。

メーテルへの憧れ

銀河鉄道999 (8)銀河鉄道999 (8)
(1997/07)
松本 零士

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スターウォーズで思い出したのだが、その前に松本零士の「宇宙戦艦ヤマト」に熱中したことがあった。
これは初代ガンダムの放映の少し前の時期である。
テレビ放映されたヤマトは当初それほどでもなかったが、やがてじわじわ人気になり、映画化でさらに話題となって、中学生ぐらいの世代が熱中していた。
私もそのクチであったが、ヤマトをきっかけに松本零士の他の作品も読むようになった。

特に好きだったのは、やはり「銀河鉄道999」、「宇宙海賊キャプテンハーロック」、「男おいどん」や戦場のロマンシリーズ。

ところで、当時酔いしれた松本零士の世界には、今から見るとフロイト的な視点から分析したくなる要素がある。

まず、美しい女性が必ずといっていいほど登場する。それは、他の登場人物とは異なるペンタッチで描かれており、ほっそりとして、幻想的な美しさをたたえている。(当時は「そんな体型あるかよ」というような絵であったが、最近の漫画では氏の影響もあってか、非現実的にスリムな女性キャラクターというのは珍しくなくなった。)
これは、明らかに理想化された母親イメージなのである。
作品の中では、美女があからさまに性的な誘惑をしてくることもあるし、メーテルのように誘惑はほのめかし的なものにとどまることもある。

母親イメージと対になるものとして、ハーロックに代表されるような父親像も登場する。
しかし、それ以上に重要なのが、数々のかっこいいメカである。
宇宙戦艦などの未来的な乗物や、戦闘機や戦車などの実在の機械。
当時の漫画界においては、彼の描くメカのかっこよさは群を抜いてすばらしかった。いや、今でもこの点で彼を超える漫画家はいないのではないかと思う。
このかっこいいメカは、少年にとって自己愛のよりどころになるファルスを象徴する、と解釈できる。

松本零士の描くワールドは、思春期の多感な少年の心を虜にしてしまうものをたくさん含んでいた。(調べてみたわけではないが、松本零士の人気を男女別に見たら他の作家以上に男性に偏っているのではなかろうか。)
おそらく彼自身がそのような空想を抱く永遠の少年であって、それを作品に表現したのであろう。

もっとも、すばらしい芸術作品を作るためには、心に抱いた魅力的な世界を表現するための技量が必要である。
この空想と技量のバランスというのがむずかしい。
技量だけが優れていて面白みのない作品もあるし、内容が意欲的だがそれを表現しきれていない場合もある。

松本零士の作品では、作者の空想世界への思い入れがあまりに大きくて、作品としてはバランスを崩してしまう場合もしばしばあり、それがファンをやきもきさせたところでもあった。
「999」でも「ハーロック」でも、単行本の一巻が一番おもしろい。「うわー、こんなすばらしい世界があるのか!」と、期待に胸を膨らませてしまう。
しかし、最後は‥‥なんかいつのまにか連載が終わっていて、単行本の最終巻持っていないので本屋で立ち読みしたら、「えっ、こんなにあっけなく終わっていたのか」というような。(というか、終わっていないんだな、実は。だから同じ登場人物が、また別の作品に登場して話が続いていく。)

松本零士氏は今でも作品を描きつづけているようだが、残念ながら、かつてのような人気はなくなってしまった。
若い人の中には、氏の黄金時代を知らない人も多いかもしれない。
しかし、現在巷にあふれている、特にSF分野の漫画やアニメに松本零士の影響を受けていないものはない、といっても過言ではない程、彼の影響力は大きかったのだと思う。

臀部への嗜好

 今読んでいる「マゾヒズムの経済論的問題」に関連したことなのだが。「読む」の方の記事にしようかとも思ったが、少々下世話な内容なのでこちらに書くことにする。あちらにも書くかもしれないが、もうすこし上品な言葉づかいになるでしょう。


 男性にとって、女性の身体のどの部分が性的に魅力的かということ。例によって、アンケートなどで調べたわけではないのだが、私の予想では、「乳房」などにつづいいて、かなりの上位に「尻」があがるのではなかろうか。


 何を隠そう、私もけっこうなお尻好きなのである。お尻の魅力というのは独特だ。フロイトは、マゾヒズムとのからみで考察していたので、「なるほど」と思った。


 お尻というのは、本人にとって一番「恥ずかしいところ」である。恥ずかしがって見せたがらないから、余計に見たくなるのが人情というものであろう。
 これに比べると、胸の方は、たしかに立派なものであり、「見せたい」、「見たい」と思って当然という感じがする。

 尻を見られることの恥ずかしさ、というものは、子供が大人から受ける懲罰ということと結びついているというのが、フロイトの分析。これも納得ができる。


 私自身の、幼少期の強烈な記憶映像がある。あるテレビ番組を、祖母の家で皆と一緒に見ていた時の、番組の映像である。
 たしか当時はよくあった、舞台の上でなされる生放送のバレエティー様の番組であった。司会は欽ちゃんであったと思う。前後の文脈は忘れたが、女性モデルが身に着けた商品としての衣服を、出演者が自分で取り外して購入するといった場面なのだが、客席に背を向けたモデルのつけたスカートかなにかを取り外す時に、勢いあまって下につけていた水着のパンツまでずり落ちてしまい、モデルの臀部が露出してしまったのだった。
 欽ちゃんが「それまで取っちゃだめだよ」とかなんとか言い、会場は笑いにつつまれるといったものだった。ふつうに子供とかも見ていた時間帯の番組であり、やらせというより、放送事故のようなものだっただろうと推測する。


 これは、子供心に紛うことのない性的な興奮をひきおこした、強烈な映像として記憶に残っている。時期がいつだったか、はっきりしないのだが、母方祖母の家で見ていたこと(それゆえに普段家ではみられないような類のものも許可されていたのかも)や、舞台上でやる生放送バラエティーということなどから推測するに、かなり古い、小学校低学年か、あるいは就学前のことかと推測する。しかし、実は案外大きくなってからのものだったかもしれない。あるいは、この手の記憶にありがちなように、すべては私の脳内で作り出された偽りの記憶なのかもしれない。


 この記憶像は、精神分析でいう「遮蔽想起(スクリーン・メモリー)」の特徴をもっている。つまり、その背後に関連した、もっと重要な記憶のコンプレクスがあるという。いろいろと思い当たることはあるのだが、これ以上はここでは言えない。

トルストイ「復活」

復活 (上巻) (新潮文庫)復活 (上巻) (新潮文庫)
(2000)
木村 浩、トルストイ 他

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★★★★☆

もう20年以上も前の話になるが、大学の教養過程で数少ない面白い講義のひとつが「日本国憲法」であった。授業では、先生が学生時代に体験した敗戦時の話や、新憲法の内容を知って感動して道を歩きながら「今度の憲法はいい憲法だなあ」と周囲に聞こえるように話したという逸話などをうかがった。その先生が、「これはいい本ですよ」と薦めていたのがトルストイの「復活」であった。

以来ずっと気になって時々書店で本を手にとったりしていたが、今回ようやく読み終えることができた。読み進みながらもたびたび先生のことが頭に浮かび、なるほど推薦の理由はこういうことかと合点がいったのであった。

若い頃の理想を捨てて堕落した貴族生活を送っていたネフリュードフは、たまたま陪審員として参加した刑事裁判で、かつて関係を持った女性カチューシャに偶然遭遇した。彼女は身を持ち崩して売春婦となり、裁判では毒殺事件の被疑者となっていた。陪審員らの思い違いや裁判長の怠慢などが重なって、カチューシャは無実の罪をきせられ徒刑囚としてシベリア送りとなる。罪悪感から理想に目覚めたネフリュードフは、判決の取り消しを求めて奔走し、カチューシャには結婚を求めてシベリアに随行する。そこで目の当たりにしたのは、囚人たちのおかれた悲惨きわまる状態であった。

前半はネフリュードフとカチューシャのロマンスや、裁判劇の面白さがぐいぐいと興味を惹きつける。後半ではは、政治犯も含めたさまざまな囚人との交流を通し、最終的には主人公が「人が人を裁いてはならない」というキリスト教的正義に目覚めていく。

日本では、この「復活」を原作として作られた劇が大正時代に人気を呼び、劇中歌「カチューシャの唄」も大流行した。「カチューシャ」と呼ばれる髪留めは、この劇の女優がしていたことに由来しているという。

小説の方は、導入部にこそロマンスはみられるが、三つの大作の中ではもっとも恋愛の要素が少なく、体制批判と理想主義的主張に貫かれた本であった。

Amazon.deで購入

フロイト全集18巻がもうすぐ終了で、まもなく第9巻にとりかかることになる。


これまで、全集の読解に合わせて、独語版全集"Gesammelte Werke"の対応巻も購入してきた。
ペーパーバック版もほとんどの著作を網羅しているし価格は断然安い。しかし、やはり全集を手元に置きたいし、日本語版のページ下部に独語版全集のページ数が書いてあるので便利である。

以前に紹介したように、アマゾンで"Freud Fischer"などと検索すると出てきて、新刊本ではないがマーケットプレイスから購入できる。
ワールドブックスという会社が出品していて、モノは新品なのだ。
フロイト・ストアからも購入できるようにしている。


ところが、このリストは全巻を網羅しているわけではなく、日本語版9巻に対応する独語版7巻はあがっていない。
さらに、以前の方法でアマゾンから検索してみたら、前にあがっていた他の巻もまったくヒットしない。
どうなっているのだろうか。

いろいろ試してみたがだめなので、別の方法を考えることにした。


アマゾンのトップページで、「ようこそ」の下のタブの一番左に「インターナショナル」というのがある。
ここをクリックすると、Amazon International、すなわち各国のアマゾンへのリンクが出てくる。
ドイツのアマゾン、Amazon.deに行ってみた。


”Freud Werke”と検索すると、Gesammelte Werkeの各巻がちゃんと出てくる。
目的の第7巻もあった。ので、今回はここから購入してみることにする。


商品を選んでカートに入れるボタンを押し、レジに進む。
ドイツ語だが日本語のアマゾンとつくりは同じなので、迷うことはない。
そして、支払い手続きであるが、各国のアマゾンは独立しているので、Amazon.deには新規にアカウントを作成する必要がある。


英語版のヘルプを読み、重要なところはドイツ語の辞書をひきながら、住所などの情報を入力する。支払いは海外の場合はクレジットカードのみになる。国際的な住所や電話番号に記入法は、ネットで検索すればすぐに出てくる。便利だなあ。


海外からの購入時の送料は、通常の船便と2日くらいで届く特急便とがあり、もちろん早い方がお高くなる。
今回は1冊購入で通常の船便14ユーロであった。12月25日頃のお届けになる予定とのこと。10日くらいかかるということか。


後は、日本のアマゾンでの購入と同じで、手続きが終わると確認メールが来る。


さて、今回の買い物であるが。


"Gesammelte Werke in Einzelbänden: Gesammelte Werke, 17 Bde., 1 Reg.-Bd. u. 1 Nachtragsbd., Bd.7, Werke aus den Jahren 1906-1909: Bd 7"
Sigmund Freud; Gebundene Ausgabe; EUR 82,24

Zwischensumme: EUR 82,24
Verpackung und Versand: EUR 14,00
Gesamtsumme für diese Bestellung: EUR 96,24



送料込みで、96.24ユーロ。現在のレート1ユーロ=164円で換算すると、15800円程になる。

日本のアマゾンのマーケットプレイスから購入した場合と比べてどうなのか。
購入した7巻は検索であがってこないのでわからない。
フロイト・ストアにも掲載されている第6巻(「機知」を含む巻で、次に購入予定)で調べてみた。


マーケットプレイスのワールド・ブックスからの購入:10595円+送料340円=10935円
Amazon.deからの購入:54ユーロ+送料14ユーロ=68ユーロ=11152円


ということで、ほとんど変わらない。
2冊以上購入すれば、送料を含めると、ドイツからの購入の方が安くなるかも。


意外に簡単だったので、これからも利用してみたくなった。
早く届かないかなあ。

歴史の制約

freudienさんのブログ「不思議のメモ帳」の記事「フロイト全集から『快原理の彼岸』」 へのトラックバック記事。


フロイトはダーウィンの信奉者だったから、自然淘汰による進化ということをよく理解していた。


「自然は飛躍しない」という有名な言葉がある。
自然淘汰は、ほんの少しずつの変化しかもたらさない。


しかも、進化に「途中」ということはない。
それぞれの時代のそれぞれの種は常に完成形なのだ。

「今は何の役にも立たないけど、進化したら将来は立派な羽になり空を飛べるでしょう」なんてことは、あり得ない。
常に完成形を保ちながら少しずつ形や機能を変えてきた。


例えば、一行だけでちゃんと動くコンピュータプログラムを書く。
それにもう一行加えて、ちゃんと動くプログラムにする。
このように、常にちゃんと動く状態を保ちながら、複雑なプログラムを書くということができるか。
もしできるとしても、それはプログラマーに大きな制約を課すものでろう。


すべての生物は、このようにして歴史的に作られたということの制約を負っている。
もし、世界中の動植物が神のような存在によって創造されたのであれば、それぞれの生物に最適の形や行動パターンをあてがわれたであろう。
しかし、すべての生物はその前段階から少しずつ変化して作られたから、必ずしも合理的でない形や機能をもっている。


その例としてフロイトは魚の産卵や渡り鳥の例をあげた。
また、個体発生が一直線にその種の完成形をめざさずに、まわり道をするのも、同じような進化のもたらす歴史的制約によると考えられる。

グラディーヴァ

グラディーヴァ・妄想と夢グラディーヴァ・妄想と夢
(1996/08)
ヴィルヘルム イェンゼン、ジークムント フロイト 他

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★★★★

 本書は、ヴィルヘルム・イェンゼン著の「グラディーヴァ――あるポンペイの幻想小説」とジクムント・フロイト「『グラディーヴァ』における妄想と夢」の二作品を、種村季弘氏の翻訳と解説で一冊の単行本におさめている。
 私の持っているものは、1996年発行の初版第一刷である。アマゾンで見ると、現在は中古本でしか手に入らないようだ。おそらく、あまり売れなかったのだろう。すばらしい企画なのに残念なことだ。

 イェンゼン(1837~1911)は、百以上の作品を書いた小説家とのことだが、今日ではほとんど読まれることがなく、この「グラディーヴァ」だけが、例外的に各国語に翻訳されて読み続けられているという。その理由は、もちろんこの小説をフロイトが分析して話題になったからだが、実は作品そのものもなかなかすばらしいのだ。

 とても面白いので、是非とも皆さんにも読んでいただきたいものだ。その場合、例によってここから先は多少ともネタバレ的になるのでご注意を。

 主人公のノベルト・ハーノルトは、若き考古学者であるが、女性などには興味を抱かずに研究に専念している。しかし、彼はある時ローマの美術館で見つけた古代のレリーフに心を奪われる。それは若く美しい女性が歩いている像であった。ハーノルトは、レプリカを自分の書斎に置いて毎日眺め、その女性に「グラディーヴァ(歩み行く女)」と名前をつけて、彼女についての空想をめぐらせる。ある日、ハーノルトはグラディーヴァがポンペイにいて、有名な火山の爆発の中で灰に埋もれていく場面を夢で見た。起き上がったハーノルトは旅に出る決意をし、ローマをすぎてポンペイにたどりついたのであった。そこで彼が見たものは‥‥。

 ストーリーは主人公ハーノルトの視点から語られるが、空想と現実の境界がだんだんぼやけてきて、主人公の思考も明らかに不合理なものになってくる。読者は、ハーノルトが精神的に病理的な状態にあることに気づくのである。
 この小説ではしかし、主人公の妄想がふくらんでわけのわからないまま、読者を煙に巻いて終わってしまうのではなかった。私は、後半ではそういったことを少し心配していたのだが、最後の数ページで作者はすべてを明るみに出して説明してくれた。それもハッピーエンドで。結末を知ってしまえば、それまでのいろいろな不可解さも「なるほどそういうことだったのか」と合点がいく。非常に後味すっきりで、よくできた作品であった。

 フロイトの解説ももちろんすばらしく、小説の面白さを倍増させるものであるが、詳しくは「読む」の方のブログで近々書くことになるだろう。
 舞台となるポンペイについての地図が巻末に掲載されているのは、大変ありがたく役に立った。こういった細かいところにも、翻訳者の種村季弘氏の思いが表れており、全体としてすばらしい本になっている。もっと売れてもいいのになあと、つくづく思う。

風邪

風邪をひいて、身体中がだるい。一日中ねてばかり。


年末年始にむけて、そろそろ記事の書きためをしようと思っていたのだが。

アマゾンのアフィリエイトは

フロイト全集 9 1906-09年 (9)/フロイト
¥4,620
Amazon.co.jp

なるほど、こうやって貼り付けるのだな。


記事作成画面から、アフィリエイト用のボタンを押して、検索して貼り付ける。(注:こちらはもともとアメーバブログの記事だったので、FC2ではあてはまりません。)


でも、前回紹介したかった、「グラディーヴァ/妄想と夢」は出てきません。新刊本がなく、マーケットプレイスからの購入になるからでしょうか。


風邪の方はだいぶましになった。


メインブログでは、第18巻の読解終了。いよいよ第9巻に入ります。今後もよろしく。

フロイト全集第九巻に突入

第18巻が無事に終了し、第九巻に入ります。


短い論文の連続は、なんだかあわただしかったので、「グラディーヴァ」でお正月過ぎくらいまで(っていつ頃なんだか考えてみるとよくわからないがアバウトです)、ひっぱろうかと思っている。

もとの小説も含めて、とてもおもしろいので。じっくりと。


風邪は、もうだいたい治った。お陰様で。


それではみなさま、来年もよろしくお願いします。(年賀状書きモード)

Gesammelte Werke VII 到着

amazon.de で注文した、独語版フロイト全集の第7巻が到着した。


注文から到着までは、


注文 12月15日

発送 12月21日

到着 12月27日


ということであった。


注文から発送までの期間は、在庫状況などによって異なるだろう。日本のアマゾンでは、だいたい発送日の翌日に届いているから、ドイツのアマゾンから注文する場合には、プラス5日程みればよいということか。


品物はもちろんちゃんとした物だった。手続きも簡単だったし、ドイツから直送されるというのが、なんといっても楽しい。今後も利用しようと思った。


中身をぱらぱら見てみると、日本語全集とは構成が違っていて、「精神分析について」は第8巻に収録され、その代わりに、ハンス症例と鼠男症例が収録されていた。


ということは、近々第8巻も購入せねばならない。まとめて買ったほうが、送料分が割安になりそうなので「機知」を収録した第6巻も一緒に注文しようか。

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重元寛人です。本名は佐藤寛といいます。
フロイト全集の読解を再開いたします。よろしく。


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